2013/09/05: 木瓜爺撮歩67-5 八王子市弐分方町・日枝神社 (No.1703)

8/29 陣馬街道撮歩の続きをしようと、八王子駅に下車。「宝生寺団地」行きのバスに乗りました。今日は、この前最後に利用したバス停より、少し八王子よりの「切り通し」という所で下車します。陣馬街道が北浅川にぶつかり左に90度曲がるところが「切り通し」なのです。ただ、切り通しというのは、山の岩を切り取って抜けられるようにした場所に付く名前で、どうもピンとこない名前のバス停です。なぜこんな名前が付いているのかを調べたいという考えもありました。

9:58 「切り通し」で下車すると、目の前に「日枝神社」がありました。何故、時間を覚えているかというと、バス停にいたおばあちゃんに時間を聞かれたからです。このおばあちゃん、バスに乗るつもりでは無いようで、次のバスもその次のバスも見送っていました。誰かを待っていたのでしょうか? 「日枝神社」は、住所的には「弐分方町」に入るようです。

m67-7850日枝神社

日枝神社の鳥居の横に、地蔵堂がありました。まず、そちらにご挨拶。

m67-7851日枝神2

おやおや、右側の2体はお地蔵様のようですが、頭部が失われています。左の塔は庚申塔でしょうか? 手が6本の像なので、青面金剛タイプでしょう。お堂は、かなり雑草に侵略されつつあるようです。

m67-7852日枝神社3

鳥居には、「日枝神社」の額がかかっています。この神社の由来を前に調べた筈なのですが・・・今メモを探しています・・・見つかりました。

伝承によると、文武天皇の697年(伝承が西暦であるか?)文武2年ですね、「由比牧」(国営牧場です)を定めた時、国造(地方を治める役人の官職)が、「大己貴命(おおなむちのみこと)」を祀ったのがはじまり。大己貴命は大国主命の異名と云われています。日枝神社は日吉大社(山王さん)の子供ですが、日吉大社は大国主命でしたね。赤坂の「日枝神社」は「大山昨命」で、ちょっと違いますが。

脱線を戻して、この神社のある場所は、少し下った「平安末期」には、武蔵七党の一つ西党の由井氏の住まいがあったとも云われています。ただ、由井氏の城はもっと東南の元八王子町の山の上にあったとされていますので、真偽の程は不明です。

m67-7853日枝神社4

石段を登って行くと、社殿に行き着きます。

m67-7855日枝神社6m67-7856日枝神社7

中を覗くと、祈祷所があって、その奥に神殿が造られているようです。 今日最初の神社なので、前途の加護をお願いしておきます。

m67-7854日枝神社5

m67-7857日枝神社8

境内の灯籠は、新しいものでした。新しいといっても、昭和期でしょう。社殿の脇の方には、こうした小さな祠が置かれています。目に付いたのは、赤い祠。m67-7858日枝神社9

お稲荷さんでしょうか? 弁天様も赤い色のことがありますが、この山の上では、弁天様とは考えにくいです。お稲荷さんか春日神社か?  少し離れて、社殿を写してみました。全体の構造はこの方が良く分かりますね。m67-7860日枝神社11

m67-7859日枝神社10

お詣りを済ませたので、石段を下ります。下った所で、神社の右脇というか・・神社に向かって左側の景色が目に入りました。m67-7861日枝神社12

道がありますね。これが「切り通し」の道のようです。

m67-7862日枝神社13

この道は、先日行った「村社 菅原神社」の方向に行く旧道(明治17年に造られた旧陣馬街道)のようです。明治17年頃に「切り通し」を造ったのですね。もっと昔の陣馬街道は「案下道」とか呼ばれたらしいのですが、この日枝神社の所から、まっすぐ川に向かい、川を渡ってから、宝生寺団地のある山の裾を左に進んだようです。

さて、次は、日枝神社の向かい側、陣馬街道を横断したところにある「法泉寺」を訪ねてみます。

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2013/09/05: 木瓜爺撮歩67-5 八王子市弐分方町・日枝神社 (No.1703) への5件のフィードバック

  1. 五十嵐一男 より:

    解りやすい解説で勉強になりありがとうございます。
    旧陣馬街道の解説で ”明治7年に「切り通し」を造ったのですね” とありますが明治18年に拡張工事
    については他の文献にありますが、恩方の歴史年表にも書かれていないので、どのような文献を
    見たらよいでしょうか。小田野新道になる前の小田野往還についてわかりましたらお教えお願い致します。

    • bokejii より:

      五十嵐様: コメントありがとうございます。この弐分方あたりのことは、手元資料も少なくて、よく分からず、ブログの記述の時は、もっぱらインターネットで得られる情報をかき集めたように記憶しています。それで、どんなものを参考にしたのか、同じようにあちこち見ましたら、明治7年ではなくて、明治17年と書かなくてはいけなかったようです。今見たのは「追分から川原宿へ、西八王子の案下道を行く」というブログ記事です。同じ記事を見た記憶がありますので、目が霞んで見間違えたのでしょう。申し訳けありませんでした。 18年に拡張工事があったという記録があるなら、つじつまはあいますね。ブログは訂正しておきます。
      なお、私の場合、知らない土地の歴史に関しては、「市史」などを見ると、意外に詳しく記述されていることがありますので、近くで閲覧出来る場合には、参考にさせてもらうこともあります。それと、インターネットの場合は、別のことを検索していて、偶然見付けるということもありますね。 例えば、小田野往還ですと、小田野城や八王子城の話にくっついて出てくるとか・・
      お役に立てず、申し訳けありません。

  2. bokejii より:

    五十嵐様: やっと思い出しました。 八王子市で出している「ふるさと八王子」という本から抜き書きしたものを見て、書いたのですが、明治17年と書くべき所を、7年に誤記(誤読)してしまったようです。チョイボケならぬオオボケの木瓜爺でした。

  3. 五十嵐一男 より:

    ご丁寧なご回答ありがとう御座いました。
    小田野往還については”恩方の歴史年表”と言う本に”神戸の切り通し”についてのなかで書かれ
    ていて弐分方に行く道があったとされていましたのでお尋ねいたしましたが、
    今日、地元の人に聞きましたら小田野バス停より山側に行った道が弐分方に行けると聞き、
    行ってみたところ6尺道で途中まで(家がある)いけますが、その先は草で覆われていますが道が
    あるようでした。
    帰って地図で確認しましたら後、150mぐらいで弐分方の神明神社に続く道でありました。

    • bokejii より:

      そうでしたか、分かってなによりでした。八王子は歴史資料が割合よく整備されて来ているようですが、私の住む羽村市は、まだ保守的で、旧家にあるはずの文書などの研究も閉ざされているようです。研究される方が、不思議な事に市外の方ばかりなので、よけいに難しいのかも知れません。 歩いていて、地元の方に伺おうとすると、引越してきたばかりで知らない・・という返事で、よく分からないことも多いのですが、ラッキーでしたね。

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