2013/12/25: 奥多摩町鳩ノ巣;木瓜爺撮歩75-12 玉川水神社 (No.1815)

とうとう79歳。70代と云えるのもあと364日です。これからの1年は、「終活」に精を出さないといけませんね。とにかく、まだら惚けですんでいるうちに、せめて「蔵書」だけでも片付けておかないと・・・でも、忘れるから本を引っ張り出すことも増えていて、矛盾に悩みます。

さて、鳩ノ巣、「ぽっぽ」の脇を通ったところからですね。

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遊歩道は、河原に下ります。

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対岸に地滑りで落ちたような岩盤が見えています。この鳩ノ巣渓谷には、かって「魚留滝」とかいうのがあったそうですが、今は何も見えません。増水したときに破壊さm75-12-3F6841れたらしいのですが、もともと岩石の重なりで出来ていた滝なのでしょうか?

神社のあった大きな岩の下まできました。ここは、巨大な岩のようです。石の目が縦に走っていますね。・・・地学を習ったのは、高1の時か・・・殆ど覚えていないなあ・・

登り口はもう少し先ですが、ここに「鳩ノ巣情報」がありました。東京都の説明板です。

これには、重要な事が列記されていますので、しっかり読みましょう。

m75-12-4F6845 鳩ノ巣由来

「明暦3(1657)年の振袖火事」江戸城のブログで書きましたね、「松平伊豆守信綱の命により、奉行松波正春が材木商太田某に命じて、氷川・日原・丹波山から木材を切り出させた。」「この材木を多摩川を利用して運搬させた。」「このため、多摩川ぞいの各地に人夫を泊める飯場小屋が造られた。」「現名、鳩ノ巣渓谷にも、魚留滝の上に飯場が造られていた。」「たまたま、その飯場に祭った水神社の森に2羽の鳩が巣を営んでいて、朝夕エサを運ぶ有様がまことに睦まじかったので、人々はこれを霊鳥として愛護した。そのため、この飯場は「鳩ノ巣飯場」と呼ばれて、道行く人の目標にされる様になり、いつかこれが地名となって今日にいたった。」

これで、地名「鳩ノ巣」の由来は分かりました。多摩川の水で材木を運ぶというのは、筏を組んでながすのですが、滝や堰があると、そこでストップしてしまいます。そう言うときは一旦筏を解体し、ばらばらで流したり(傷が付くのでこの方法は最善とは云えません)人間の手で陸路を運び、平になったところで再び筏に組んだりしたのです。後で出てくるもう一枚の説明板では、ここには、魚留滝があるため「管流し」という1本づつ流す方法で、この難関を通したと書かれていました。ちゃんと筏に組むのは、古里の「音が淵」というところからだったそうです。

ちなみに、江戸に水を送った玉川上水が出来たのは、承応2(1653)年の事です。従って、この材木運搬が行われた1657年以降には、すでに羽村堰が出来ており、筏落としという水路はあったかも知れませんが、通常、開く時間が限定されているので、バラして担ぎ下ろす作業が行われたでしょう。また、玉川上水自体を利用して筏を送ったこともあるでしょう。 実をいうと、多摩川を下った筏をどこで収容して、江戸の町若しくは木場(水上の材木貯蔵池)に送ったのか、明確になった資料が発表されていないらしいのです。大正頃の記録では「六郷」が筏の終点で、「六郷の筏宿」に引き渡され、羽田沖あたりに「駐木場(?)」があったようです。江戸期も同じような状態で、そこから陸路(東海道)を運んだのだろうということです。・・でも、青梅で回収して青梅街道を運ぶことも、日野で回収して甲州街道を利用することも考えられます。こういう運搬システムの研究をしている方に伺いたい所ですね。青梅市史には筏流しの研究が載っているらしいです。

もう一つ、材木集めは奥多摩だけではなく、荒川・利根川系でも大量に集められたようです。そして、こちらは水路をうまく使って「木場」に入れたものと思われます。「六郷」の方は、一旦海にでないと「木場」のほうには行けず、当時は機関付きの船がありませんから、牽引は困難だったでしょう。

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m75-12-6F6843後ろを振り返ると、長い石段がありました。「鳩ノ巣小橋」の矢印がついているのですが、これは私が歩いて来た道のことで、石段の道標ではなさそうです。人が歩いた跡も落ち葉には残されていません。崖の中腹にある施設からの道か? その横に、小さな滝が出来ていました。2筋あるので、これを「双竜の滝」としてアルバムにアップロードされているそそっかしいカメラマンも居られますよ。

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さて、水神様です。「水神宮」という石碑が立っています。20m位の上りでしょうか。鳥居をくぐると、ちょっと平な場所になり、右手には休憩舎が作られています。

m75-12-8F6853 その横に、第二の「説明板」がありました。これは、「水神社」の由来です。ただ、金属の板に文字を書いた上にプラスチックのようなものを貼ったらしいのですが、そのプラスチック部分が風化して汚れ、下の文字が読めないのです。たまたま、皮膜が剥げた場所があり、その部分を拾い読みです。

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「祭神は 罔象女神」・・・罔は「あみ」の意味です、ぼう なのか もう なのか、読み方も分かりません。あとで調べよう・・と、メモしました。「罔象女神(みつはのめのかみ)」だそうです。音は聞いたことがある・・・「水波能売命」だ! 日本の水神様のNo.1・・・その先が、読めないことばかり・・・写真に撮して、ブログを書きながら虫眼鏡で判読しています。「創建はさだかでない」、「雑社 元標より未の方 字大橋406番 山反 一反歩 村民共有の地にあり」、「弘化三丙午年正月十五日 祭主 平朝臣延脩 再建」、「一心亭開祖「佐久間鶴吉」が、天祖山天祖神社の神託をうけて、この鳩ノ巣渓谷を開拓整備し、昭和六年 鶴吉が嗣子・・・再建」などと書かれています。

弘化3年というのは1846年、孝明天皇が即位された年ですから、江戸時代の末期に近いですね。そこで、社殿が新しくなり、更に昭和6年にまた改修したようです。この「一心亭」というのは、神社の鳥居の前にある「そば屋」ですが、今は営業していないような感じでした。日曜祭日営業でしょうか? 昔の有名店です。

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m75-12-11F6867時間がかかりましたが、やっと社殿前に着きました。鳩ノ巣小橋で見たより小さくなった! でも、風格のある社です。 羽村にも「玉川水神社」がありますが、その古社がこの鳩ノ巣の神社だと言います。ただ、木瓜爺としては、納得の行かない部分もあるのです。というのは、玉川上水は、振袖火事需要の「鳩ノ巣飯場」が出来る前に、出来ているのです。ちーっとおかしい。・・  時系列的に整理すると、魚留滝の古社「玉川水神社」は、ずーっと以前、三田氏が奥多摩を支配した頃からあった。羽村に上水を作る時、古社「玉川水神社」を勧請して堰の守り神にした。その後、昭和にはいってから、笠取山の「水干」に「玉川水神社」の奧社を作った。と言うことでしょう。規模は別にして「鳩ノ巣飯場」自体は、振袖火事のずっと昔から存在したのでしょう。だって、玉川上水の建設にも、材木を使ったはずですから・・そうでないと、伝説のつじつまが合いません。

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こういう写真いかがですか? 向こうに見えているのは「鳩ノ巣小橋」です。もう少し社殿を大きくしたかったのですが、そうすると、橋が小さくなりすぎるので・・m75-12-13F6869

社殿抜きですと、こんな感じ。「ぽっぽ」の横の木は「紅葉」ですから、紅葉の時期にも来たいですね。

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お詣りを済ませて、下に降ります。淵を覗くと怖い! 多分、このあたりが「魚留滝」があった所でしょう。写真右側の岩が滝を作っていた岩の生き残りかも知れません。左は転がった方の岩・・・なんて、勝手に想像しました。右の写真、杉の木の向こうに見える建物は「一心亭」です。

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「一心亭」との間にある「水神橋」を渡って、雲仙橋の方に行きましょう。お店の中を通り抜けるのですが、一応道路です。

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