2014/09/03: 続・檜原村散歩;木瓜爺撮歩87-06 八坂神社と王子が城 (No.2067)

東光寺の下の道は、実は浅間嶺への道そのものです。この道に、「王子が城」だとか「ためさだやかた」などがあるとは、全然知りませんでした。実際には名前だけが伝わっていて、遺跡的なものはないようです・・というか、リサイクルされて神社材料になってしまったらしいです。さて、八坂神社に到着しました。明神鳥居が立っていますが、昔の名前は「牛頭天王社」あるいは「十二王子神社」と呼ばれたそうです。この十二王子というのは、熊野信仰の一つですが、木瓜爺は理解していません。「牛頭天王社」にほうなら、現在は「素戔嗚尊」になっているだろうと推定出来ます。

実際の本尊、じゃない「御神体」なのですが、「地蔵菩薩」二体と「狩衣を着た神像」なのだそうです。これは興味があります。

かなり長い石段が続きます。上がって行くと社殿の横腹に到着します。面白いのは、ご覧通り、神殿部分がむき出しなのです。前方に大きな祈祷殿がついています。木瓜爺は神殿直接にお詣りします。

 

m87-06-04-R10787.jpg

こちらが拝殿の正面です。額などは見えません。多摩の神社準備室を見ますと、創建のことが書かれていました。創建は平安時代にさかのぼり、檜原を治めていた「宿辺少将橘高安」という方。この人は、前にも触れた渡来人の子孫ですが、源頼義(よりよし)に従って、前九年の役に従軍しています。このとき、部下に疫病で死ぬ者が多発し、慌てて(?)京都の八坂神社(正しくは祇園神社でしょう)から分霊を勧請して祀ったのが始まりだそうです。つまり、祇園社から牛頭天王の御札を頂いて来て祀ったってことですね。お地蔵様や狩衣の神像というのは、もっと後のことになりそうです。

やがて、この神社、小岩組の鎮守となりますが、別当寺はなく「村人持ち」だそうです。ついでに忘れていた事を書いておきます。渡来人が奥多摩に来た話なのですが、これは自然に増加しているのではなく、奈良時代の朝廷が、東国の開拓のために、技術を持った渡来人を送り込んでいるのです。

さて、お堂を眺めます。木鼻までついた美しいものです。

神殿の横に、良く分からない石がありました。「源義家のいわれ石」というものがあると書かれているのですが、そう言う類の者でしょうか? それと、末社がもっと在るかと思ったのですが、確認出来たのは一つだけでした。

この神社の鳥居の前の方は、畑というか、何も無い場所ですが、その辺りのかなりの範囲が「王子が城」なのだそうです。つまり「源為定」王子の舘があった場所です。別の言い方が「ためさだやしき」。

どう写せば良いのか分からなかったのですが、こんな写真が出ていました。これは良い方法です。鳥居のほうから外を写しています。前に広がった畑が、「王子が城」と呼ばれる領域なのだそうです。

m87-06王子ヶ城

神社のすぐ横に立派な家があったので、為定舘の復活かと思ったら「民宿」でした。

さて、バスの時間まで20分。バス停まで10分。今日は引き上げます。R2君ご苦労様。結構がんばってくれました。天気が良ければ、どのカメラだってちゃんと写るようです。

壊れたHS-30、8/30に修理が出来ました。この檜原散歩、続きはHS-30が引き受ける予定です。

次のポイントは、檜原村の寺院では、最も有名かも知れない「臼杵山 天光寺」という、密教の修行道場です。はたして立ち入ることが出来るかどうか・・・・ただし、ブログとしては、天候と歩ける日の都合で、一旦別の所に行くかも知れません。

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