2014/09/04: 木瓜爺雑談;多摩川風景と叔父の思い出 (No.2068)

撮歩ブログは雨に影響されて取材?に出られず、雑談で2,3日しのぐはめに陥っています。今日は多摩川河川敷の写真と、全く関係ない思い出話でしのぎます。

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昨日、父の末弟のあたる叔父の告別式がありました。父が死んでから48年になりますから、兄弟の中では抜群の長寿でした。この叔父とは、同じ家で住んでいた時代もあるのですが、不思議な事に私のアルバムには写真がありません。父とはかなり年が離れていましたから、生活パターンが異なっていたのでしょう。叔父は当時としては晩婚で、結婚式は私より半年ほど早いだけでした。そして、我が家(当時は父も母も、父の姉も健在でした)の敷地の中に別の家を建て暮らしはじめました。私が結婚し、新婚家庭が並んだわけでしたが、この頃から、どうも2軒の間でギクシャクする事が絶えなくなり、何となく疎遠になって行きました。叔父は叔父自身の家庭を守りたかったのでしょう。

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我が家の方は、伯母、父と次々の他界して行き、叔父は兄弟を全部失ったのですが、怖い者がなくなった状態で、私の妻にも言いたい放題(?)だったそうです。そんな経緯があって、母と妹を国分寺に残して、私達が羽村に移り住むのに拍車がかかったのかも知れません。それからは、極めて疎遠になってしまいました。

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世帯をもつまでの叔父については、結構懐かしい思い出があります。私が小学2.3年生の頃だと思います。家の中ばかりで遊んでいる私を、「ウォーキング」に引っ張り出してくれました。当時の叔父は、大阪外国語専門学校生だったと思いますが、徴兵検査の直前位の年です。大阪の田邊本町という所から、長居公園や帝塚山を通って天王寺動物園の方まで、てくてく・・・。距離にすると、10kmちょっとでしょうか? 当時の私の身長は100cm位(チビでした)です。ですから、この距離は相当な距離です。叔父にしてみれば、小学校の遠足、当時は「行軍」と呼ばれた歩いて行く遠足について行けるよう鍛えてくれたのでしょう。

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郊外の田圃に、イナゴ取りに連れて行ってくれたこともありました。ただ、この時は、下駄の鼻緒は切れるは、イナゴは素早いわ、で、二人で3,4匹、さんざんな目に遭いました。 イナゴ取りは、祖母の方が上手でした。袋一杯取ってきて、生かしたまま袋の中で、暫く糞などをさせてから、佃煮のような料理にしていました。

ちょっと、写真の説明です。羽村大橋の下は、昔砂利を大量に採取した場所で、現在はこんな赤土が固まったような「なめ」になっています。そこに、昨年、小作取水口の粗利から大量に砂利を運んで、すっかり覆ってしまいました。この作業の為に、例年、多摩川右岸に作られていたカワセミの巣も埋めれてしまったようでした。カワセミというのは崖のような場所に穴を掘って巣を作ります。そういう崖の前に砂利を積んでしまったという意味です。今年になって、大雨で積んだ砂利が流され、「ナメ」がまた見えて来ました。しかし、川の流れは前と変わりましたし、巣場所を覆った砂利はそのまま残っていますので、今年はカワセミの姿を見ることが出来ません。生きていれば、もっと下流に巣穴を移しているでしょう。

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草木が、程良い香りで咲いていました。

叔父の話に戻ります。太平洋戦争が始まり、父は友人の軍需工場を手伝う為に祖母と伯母を大阪に残したまま、母と私達兄弟を連れて、東京に引っ越し、中野で半年住んだのち、国分寺に移りました。叔父は、兵役にとられ、習志野駐屯部隊に配属されました。

食糧難もそろそろ始まっていました。国分寺の我が家では、鶏を2羽飼っていました。卵を産ませようと、父が農家から入手してきた若鶏でしたが、世話係は私達兄妹。しかし、一羽は、なかなか卵を産んでくれません。ある日、叔父が休暇を貰って、大阪まで帰るのは大変だから、国分寺へ来るとの知らせが舞い込みました。何かごちそうを作って、もてなしてやりたい。だけど、「贅沢は敵だ」のご時世です。ご馳走の材料などの入手も出来ません。父は、一大決心(?)し、私達が世話していた鶏の卵を産まない方を殺しました。その腹を割いたら、卵が一杯ついた卵巣が出て来て、私達兄妹は大泣きしたのです。もう少し早く生み始めてくれていたら、殺されなかったかもしれない・・・兄妹の涙をこめた鶏肉は、叔父の腹に納まりました。ところが、それから10日あまりたって、大阪の祖母から父の所に手紙が来ました。叔父の休暇日のもてなしの礼状だと思ったら、「碌な物食べさせてくれなかったと言ってきた」という苦情だったのです。父も怒りましたが、私達兄妹にとっては、この日から叔父は「鶏の仇」に化したのです。考えてみると、当時、内地の軍隊は食料事情も悪くなかったから、私達の馳走は当たり前の飯だったのでしょう。それと、兄弟の末っ子ですから母親への甘えもあって兄貴の悪口を書いたのでしょう。

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写真は、かってカワセミの写真を沢山写した支流の池。ちょっと覗いたら、鉄棒が何本も立っています。どうやら、生け簀にして、魚取りの遊びに使うようです。実際にこの写真を写した翌日に、どこかの団体が子供会のようなことをやっていました。ここはトンボの産卵場でもあるのですが、この催しのお陰で、トンボの卵も被害を受けたでしょうね。人間の遊びは、他の動物植物にとっては、災害になっています。そのことを殆ど意識しない人間の傲慢さ!

こんな事をして、「自然に親しむ」なんて思っている人間って、やはりバカなのだ。

話を戻して、叔父が「いい人」になったのは、私が社会人になって1年くらいした頃でしょうか・・そのころまだ私はカメラらしいカメラを持っておらず、コニレットを持っていただけでした。昭和28年頃、小西六が出した小型カメラですが、昭和32年頃にどういう経緯で入手していたのか良く覚えていません。調べて見ると、コニレットⅡというのが昭和32年に出ていますので、多分これを買ったのでしょう。このカメラ、最後どうしたのか全く記憶がありません。どなたかにあげたのでしょう。コニレットってこんなカメラです。ボデーはベークライトのような材質。蛇腹式です。Ⅱ型はもう少しシンプルだったような気がします。

それはともかく、写真は写したいけど良いカメラがない状態の私に「これ使うか?」と、叔父がleotax FレオタックスFというライカ型のカメラをくれたのです。叔父はミランダという一眼レフを買ったので、いらなくなったと言います。「鶏の仇」が「いい人」に代わった瞬間でした。有難く頂きました。貰ったカメラは50mmの標準レンズ(ヘキサーの沈胴式)がついていましたが、給料を貰う度に、35mm、105mmと交換レンズが増えて行きました。病が始まったのです。といっても、現金で買うほど給料を貰っていたわけではありませんので「月賦」という方法です。あのレオタックスを貰わなければ、全く違うことになっていたかも知れません。 やがて、レオタックスFは、ニコンSPに昇格しました。中古入手ですが、日本最高のレンジファインダーカメラです。結婚するまで、撮りまくりました。いや、新婚旅行の写真の半分以上はSPが写していました。後の半分は、ゼンザブロニカ。カメラは贅沢な旅行でしたねえ。

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最後に叔父の声を聞いたのは、6月だったか、大雨の後、被害はないかと見舞いの電話を頂いたのでした。そのとき、祖父の作品が東京藝術大学博物館に保管されているという事を伝えたのが最後の話になりました。今は天に昇り、祖母に会ってワガママを言っているかも知れませんね。冥福を祈ります。

・・・写真は、カルガモの親子。

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