2014/09/07: 滝山街道;木瓜爺撮歩85-25 梅坪天神・甲(かぶと)明神・子安明神 (No.2070)

少林寺を出て、真っ直ぐ南下・・旧滝山街道を横切って、谷地川を渡ります。

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この橋は、「梅坪橋」。川を渡ったところはまだ「丹木町1」らしいのですが、新滝山街道を越えると「梅坪町」となるようです。新滝山街道を越えたところにある天神様なので、「梅坪天神」としました。ここは、「八王子市」なのですが、豊田にも梅坪町があったといわれて、あわてて調べたら、トヨタ自動車のある「豊田市」の話でした。木瓜爺は、中央線豊田駅の近くにあると混乱しm85-25-03 F9253たのです。

新滝山街道に向かう道は、綺麗に整備されています。

ちょっと見せたい風景もあるのですが、どうせ後でまたこのみちを戻って来ますので、帰りにしましょう。

m85-25-04 F9263 梅坪天神

 

 

新滝山街道にでました。道路の向こう側にコンビニが出来て居ますが、その背後高い場所に目をやってください。社殿が見えています。あれが、「梅坪天神」です。

街道を横断し、コンビニの右側に回って、道路を見付けます。

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このみちで良いようです。近づいてきました。

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右に曲がったところに縄が張られた入口がありましたが、鳥居が見えていますので、鳥居をくぐることにします。

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m85-25-08 F9269木製の年季が入った「両部鳥居」です。「両部鳥居」というのは、お寺の四脚門と同じように、支脚がついた形の鳥居です。

立っていた灯籠、年号が刻まれています。「文政十一(1828)年」です。

木瓜爺が、ブログを書くとき、参考にするインターネット上の神社DBには、住所と地図しかない一次元的DBは全く役に立ちません。祭神や歴史的事項を取り込んでいる二次元以上でないと駄目なのです。いつも引用させて頂く「多摩の神社準備室」は、この役に立つレベルの内容です。でも、まだ不満足なこともあるのです。その一つをこの神社の例でお話出来そうです。

 

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改めて、鳥居をくぐります。

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社殿の下半身(?)は、改修があったようです。で、問題の社殿の額を発見。

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これなのです。「多摩の神社準備室」には「祭神は菅原道真」《解説 梅坪村の鎮守。
天安年間(857~58)北野威徳天神社を祀ったという。嘉禎3年(1237)富所左衛門・左近将監によって再建された。
永禄12年(1569)武田信玄の滝山城攻めで焼失。天和3年(1683)に社殿を再建した。江戸時代に八王子の女性俳人として知られた松原庵星布などの俳句を記した扁額が伝わる。例大祭では、永禄年間(1558~69)に始められたという獅子舞「簓獅子舞」(ささらししまい)が奉納されていたが、
昭和44年(1969)を最後に絶えてしまった。
この獅子舞は小宮地区石川の御嶽神社の獅子舞と同じ系列に属し、
「春の梅坪、秋の石川」と言われた。》と、すごく丁寧に書かれているのですが、この額には触れていません。他の方の参拝ブログには、「甲明神と子守明神がありました。」で、お終い・・・若しくは「天神様のほかに、甲明神と子安明神が祀られていました」でお終い。 「甲明神」って何なんだよ! 疑問持たないの? 木瓜爺がよほど無知なのでしょうね・・・皆さん、名前だけで分かっていらっしゃるのだ・・・

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脇にもう一つ額があって、これには「天満宮」と書かれています。この額の方が古そうです。元々は、天神様だったということは確かです。それに合祀が加わったとして、何者かを明らかにしないと、木瓜爺としては夢見が悪い!

だいたい、「甲明神」何と読みます? これ「かぶとみょうじん」と読むらしいのです。「甲明神」という名で、かなり有名なのは、常陸大宮と言うところに、大同2(807)年、藤原良継が勅命によって「甲明神」を祀った、という神社です。ホームページにはこう書かれていました。《社伝によれば、大同2年(807)に藤原良継が勅命を受けて甲明神を祀ったのがはじまりといいます。社名は、佐竹初代 昌義(まさよし)が、源氏の祖である源経基(みなもとのつねもと)の甲を奉納したことに由来すると伝えられています。かつては部垂(へたれ 大宮)・宇留野・樫村(富岡)・小倉・塩原・辰ノ口・岩崎・上根本(鷹巣の一部)・横瀬(鷹巣の一部)・八田・菅又(若林)・引田、12ケ村の総鎮守でしたが、近世水戸藩の一村一社制により、元禄年間以降は部垂村一村の鎮守となりました。 (現在の)祭神は熯速日命(ひはやひのみこと)、甕速日命(みかはやひのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)です。》 (現在の)という言葉は木瓜爺が加えました。どうせ、明治時代にいじり回されているはずですから。

この例のように、「甲神社」は武将の甲を祀った神社の名前のようです。少林寺に氏照の鎧甲があったということを書きましたね。その甲が現在もあるのかどうか? 案外払い下げられて甲明神に来ていたりして・・・冗談はともかくとして、武将の甲冑を祀った明神様がどこかにあって(少林寺の境内だったかもしれない)、それを合祀したという事にしておきましょう。一昨日書いた、猛将「中山勘解由」が戦死したときの甲の破片でもあれば、きっとお祀りしたでしょう。

さて、今度は「子安明神」です。これはある程度見当がついているのですが、ひとまずまともに説明します。「子安明神」つまり「子安神社」には、二通りの系統があると思われます。一つは熊野系でして、熊野本宮の第八社に「子安宮」というのがあって、これを勧請したケース。もう一つは、吉野系なのですが、吉野八社明神の一つ。正確にたどると、ご存じ「蔵王権現」発祥の金峯山寺に三所権現というのがありまして、その中に「勝手明神」と「子安明神」が含まれています。この「勝手明神」は男神で「子安明神」は女神、二神は夫婦神なのだそうです。・・・ここで、ちょっと思い出して頂きましょう。・・・2014/8/4と思いますが、「撮歩85-16 丹木町御嶽社(No.2037) というブログを書いているのですが、この中で、御嶽社には、昔、勝手神社と子安神社があった、ということを書いたはず。で、「勝手神社」の方は、2014/8/8 「撮歩85-20 勝手神社 (No.2041)」で見付けました。その片割れ「子安神社」の「子安明神」が、この「梅坪天神」に居候されていたのだろうと、解釈しました。

ということで、木瓜爺やっとすっきりしました。当たらずといえども遠からず、だろうと思います。

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社殿は、後部が覆殿になっているようです。正面から覗いて見ました。

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神殿が見えます。やはり、三柱祀られていると思われる形になっていますね。

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m85-25-16 F9290木鼻の獅子、なかなか良い感じで守っています。これは右側の獅子かな? 左側にもいます。

境内末社は、お稲荷さんでした。さて、次は、また旧滝山街道に戻って、滝山町2の「神明神社」を探します。その近くに滝山町1の「八雲神社」もあると、地図は教えてくれているのですが、すんなり見つかるかどうか?

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