2014/09/12: 続・檜原村散歩;木瓜爺撮歩87-09 金剛山宝蔵寺 (No.2075)

バス停「宝蔵寺」です。

m87-09-00 F9367 宝蔵寺

この宝蔵寺について、檜原村の「三頭山荘」の方が解説をしてくださったブログをメモしてありましたので、先に紹介しておきましょう。若干書き写しを省略したところがあるかも知れません。《 檜原村夏地3863番に建つ金剛山寶蔵寺は檜原村でもっとも古い寺院です。寺は建永2年(1207)に建立。本尊は大聖不動明王(木の立像長2尺許)。
正和3年(1314)寺坊が焼失し、宝暦元年(1751)から同6年かけて修理建立され、その後幾多の修理を重ねたが補修も困難となり檀家の協議の上改築がされた。昭和52年4月20日に落慶法要が行われた。現在の寺院は伝統様式を伝えた美しい寺院です。
ここには、橘高安の大きな位牌があります。神官の位牌で一段と大きく位牌には『延暦7年(788)7月15日、橘樹少将高安公、高安院殿憲澄自性大居士、天平19年(747)京都大和国吉野山より当山開基城主』とあります。
寶蔵寺にまつわる伝説としてこの様な話があります。『鎌倉時代、寶蔵寺は建長寺派では無かったが土地は鎌倉の勢力下にあり、祈願所が建てられ源頼朝像を祭った。のちに崖崩れがあって祈願所は本尊もろとも流出し、秋川から多摩川に流れ込んだ。この本尊が川崎の漁師の網にかかり、川崎大師に祭られた。同じ伝説が川崎にも伝わるといいます》

このお話、少し混線気味です。位牌の所です。橘高安というのは、2,3日前に書いた檜原村の領主だった方ですから、位牌があっても不思議ではないのですが、寺が1207年に建立されたとすれば、位牌が天平では古すぎるでしょ。どこかにあった位牌をあとで持って来たと考えましょう。あるいは、宝蔵寺自体1314年に焼失していますから、供養のために、寺が再建されてから作ったのかも知れません。

m87-09-01 F9365もう一つは宗派の問題です。ここは、現在「真言宗豊山派」・・「大悲願寺の末寺」ですから、「大悲願寺」と同じです。大悲願寺は、平山季重が開基、ここも平山季重開基ですから、この系統は間違いないでしょう。大悲願寺は京都の醍醐寺から僧を招いて開山していますので、真言宗の系統であることも間違いないと思います。「建長寺派」云々は関係有りません。「源頼朝」は季重の上司ですから、祈願所を作っても不思議ではありません。 石段を上ろうとして、妙なものを見付けまm87-09-02 F9366した。

左側です。地蔵堂のようなものが見えますか? この付近に石碑・石像がありました。この真ん中の大きな石、「南無阿弥陀仏」と彫られています。真言宗にしてはいささか異端児。まあ、おおらかだったのでしょう。その右の(向かって)は、子安観音のようです。子供を胸に抱えておられるように見えます。石榴を持っていれば「鬼子母神」ですが、右手にぶら下げているのが、石榴かどうか? よく分かりません。

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すぐ上のお地蔵様です。ちょっととぼけた表情です。持っている物が経文のようです。どうも、お地蔵様ではなくて、「弘法大師」のようですね。失礼しました。

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ここは、「多摩八十八ヶ所霊場 の 第五十番」なのです。境内に大師修行像が建っていませんでしたから、ここが「大師堂」なのでしょう。勿論、本堂に置かれているかも知れません。階段は二段構えになっていて、四十段ほど上がって、ちょっと平地があり、再び同じほど上がります。すると、鐘撞堂と本堂の前に出ます。

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m87-09-07 F9378 三頭山荘の解説記事とは別の資料で、建久2(1207)年 開山 選光禅師と書かれたものがありましたが、真偽は不明。真言宗で禅師というのが納得出来ません。ただ、先ほどの「南無阿弥陀仏」碑の例もありますから、いろいろな重なりもあるのでしょう。また、昨日ちょっと書きました日天社も、この寺の奧の院的な位置付けの「大日如来」だったのかも知れません。くわしく調べると面白いお寺でしょうね。  昭和52年落成という本堂は、真言宗らしくない、それこそ禅寺のような質素な作りです。本堂に進んで、不動明王に合掌・・・何も見えませんが。  六地蔵堂らしいものが木陰に見えました。鐘楼の裏にもお堂があります。まず、六地蔵の方に行きます。

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前に横木があるので、写しにくいです。中央に延命地蔵を置いた6地蔵ですが、一つは首だけの状態です。左端の前に板碑がありますね。

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この字は? アンチョコ忘れた! 今調べます。右の方に点が二つ縦並びしているのは・・・阿弥陀、勢至、大日いろいろあるなあ・・左の形は? どうも「阿弥陀如来」のようですよ。 かなり阿弥陀信仰が入り込んでいるようですね。いや、真言宗自体は大日如来を中心とする多神教(?)ですから問題はないのです。帰依する村民の方の話と思ってください。

もう一つのお堂も石仏ですが・・・ ほほう、左端に「奪衣婆」がおられますね。

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真ん中は、百番供養碑のようですが、ちょっと凝っていますね。その次は、あれ、これはどちらだろう? 如意輪観音か弥勒菩薩か・・・あとでゆっくり調べましょう。

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続きがまだあるのです。地蔵様があって、その先がまた分かりません。戻って先ほどの像です。可愛らしいお顔ですね。m87-09-13 F9408右膝を立てていますね。二臂の如意輪観音のようですね。弥勒菩薩だと書かれている方も居られます。おそらく、優しいお顔から弥勒菩薩と見られたのでしょう。弥勒も頬に手を当てた思惟の形をとられますが、左足を下げて右足を半跏という形にくまれるのが常形、ただし交脚のものもあるので、何とも分かりません。

如意輪観音も腕が何本もあるときは分かりやすいのですが、二本で頬杖つかれると、紛らわしいです。冠に阿弥陀如来が付いていれば、如意輪観音です。弥勒は五仏が付いているということが有るそうです。石仏ではそこまでの表現はお目にかかれませんが・・m87-09-14 F9410

【2015/08/28 追記: 「新編武蔵風土記稿」の 宝蔵寺 には、墓所の古碑 に元亨三(1323)年とかすかに読めるものがあったことが記され、開山が寛永年間(1624-1644)の人になっているので、開山ではなくて中興だろうと指摘しています。】

さて、そろそろ失礼しましょうか。境内に置かれた灯籠の残骸でしょうか? 本堂の前を通って、横の方の道に出ました。本堂の裏手は墓地になっています。

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この時、何気なく横の山を写したのですが・・・右の一番高い場所あたりに日天社があったらしいのです。失敗の巻でした。【2015/08/28追記: 「新編武蔵風土記稿」に記された日天社: 年貢地夏地沢ノ山上ニアリ 小社ナリ 鎮座ノ年歴等ハツマヒラカナラス】

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この、宝蔵寺と松姫との関わりを「昔の檜原村物語」として記述されている方がおられます。昭和31年に、檜原村下川乗の清水家から、古絵図が見つかったのだそうです。この絵図の書かれた時期が、太閤から徳川に政権が移るころのようで、なかなか面白い内容だそうです。この絵図が、松姫の行動と関係があるとして、お話は進みますが、その中で「宝蔵寺」は、徳川を目をくらます法要(勝頼などの)が営まれたと見せかけるダミー寺になっています。松姫一行は甲斐国に戻って、法要をしたのではないかというお話です。何度も書いていますが、檜原村の浅間嶺からは、甲州裏街道ですからね。

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さて、少し下って、川を渡り、川向こうの山の上にある神社に行こうと思います。

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