2014/09/23: 滝山城趾;木瓜爺撮歩85-29 滝山荘 (No.2086)

小宮曲輪は、滝山城が永禄12(1569)年、武田信玄の軍勢によって陥落しています。すぐ横の三の丸も占領されました。信玄軍は総勢二万、守る北条氏照軍は三千。氏照は二の丸で采配をふるって抵抗します。三の丸と二の丸の間には、深さ10m程の空堀がありますので、二の丸の抵抗力は大きかったのでしょう。でも、この話、信玄軍は本気で攻めたとは思えません。本陣は川向こうの拝島に陣取っていたと言いますし、本来の攻撃目標は、小田原城だと言うことですから、後ろから挟み撃ちにされないように、叩いておこう、と言う程度の攻撃だったと思います。北条方は1000人死にました。信玄方は、兵の損失大 というだけで、正確なところは不明。まあ、これだけ脅しておけば、追ってくることもないだろう・・と、転進したことになっています。

せっかくですから、もう少し詳しく書きましょう。高尾駅の近くなのですが「廿里(とどり)古戦場」というのがあります。Choi-Boke爺ちゃんのブログの、21- 木瓜爺撮歩44-14 多摩森林科学園(1) (No.1534) に出て来ます。信玄軍の別働隊、岩殿(現、大月付近)城主の「小山田信茂」が手勢1000人で、小仏峠を越えてやってきたので、氏照は、拝島にいる信玄の大軍は相手にしたくないが、別働隊千人位の敵なら勝てる!と判断し、「横地監物(後の八王子城城主代理)」「中山勘解由(金龍山少林寺(1) (No.2069) 参照)、「布施出羽守」らに2000人の兵を付けて、邀撃に出ます。永禄12(1569)年10月1日のことです。ところが、小山田信茂は歴戦の雄・・負けたふりして退却し、待ち伏せの計で、あっという間に北条軍を打ち破ります。251人を殺され、横地監物以下、ほうほうの体で滝山城に逃げ帰りました。そして、城の守りを固めることに専念したのです。

一方拝島の信玄軍ですが、信玄は勝頼を総大将に決め、自分は後見役になります。「勝頼」と信玄の甥「信豊」は、それぞれ1000人の兵で滝山城を攻めます。三の丸まで攻め入ったのは、勝頼軍ですが、・・・新田次郎氏著の「武田信玄 (火の巻)」では、青梅の師岡城主 「師岡山城守」と「勝頼」が一騎打ちをする、面白い場面です・・・ここで、信玄が軍監から戦況を聞き「討死38人、傷ついたもの153人」と聞いて、暫く考え、「今夜中に陣を引いて、ここを発し、夜道を掛けて小田原に進む」と言い放った・・と言うことになっています。信玄は、「城を取るのではなく、北条の心をとる戦」をしたという事です。m85-29-01 F9718

三の丸のところの土橋の説明。土橋というのは空堀を渡る道のことです。

くるくる方向を変えさせて側面から攻撃出来るようにしたと書かれています。

m85-29-02 F9717

現物は車道になってしまったようです。

m85-29-04 F9722

凹んでいるのは空振りの跡でしょう。この平地が三の丸跡でしょうか?

m85-29-05 F9725

m85-29-06 F9726

この辺りで、戦闘が行われたのでしょう。ちょっと先の左手に、大きな原っぱが出来て居ました。ここが、「千畳敷」という場所でしょうか? 千畳敷は大広間などがある政務用の建物でしょう。

m85-29-07 F9728

m85-29-08 F9730

道標がありました。「古峰ヶ原園地」というのは、少林寺の方からの道にある園地でしょう。「古峰(こぶ)の道」という散策路があります。八高線の「小宮」駅付近からはじまり、この滝山城趾に来る道です。暫く歩いた所で、別の道標に、また「古峰ヶ原園地」が出て来ました。道が二通りあるようですね。

m85-29-09 F9735

さて、今日の本題「滝山荘」の文字が出て来ました。これは何でしょうね? 滝山城趾の「中之丸」広場に到着しました。大きな看板とその向こうにトイレがあります。

m85-29-12 F9740

m85-29-13 F9742

滝山城趾の解説がありました。ここで、へーっ、「氏照の養父が変わるのだ・・」大石定久ではなくて、由井領の大石綱周の養子らしいのだそうです。

m85-29-14 F9745

この中之丸広場の真ん中にある建物。寺っぽい建物です。これが、「滝山荘」の跡地に作られた建物だというのですが、全く新しいものには見えないし、「滝山荘」に手を入れたと言うことかも知れません。

で、「滝山荘」というのは何かというと、木瓜爺が社会人になってきりきり舞いしていた頃、正確には、昭和34(1959)年8月15日に開業した「国民宿舎」なのです。木造平屋建。定員50人の宿。見ていますが、記憶が蘇らないのです。売店があったのが、この面だったかなあ? 平成12(2000)年3月31日休止。となっています。ただ不思議な事があります。木瓜爺の手元には、昭和58(1983)年改訂21版「全国国民宿舎」という交通公社発行の冊子があるのですが、これに載っていないのです。捨ててしまった昭和40年の初版には掲載されていました。ですから、もっと前に廃業したと思っていたのですが、平成まで生き残っていたのですね。これは意外でした。もっとも、宿泊施設としてではなく、売店として存続していたのかも知れません。

m85-29-15 F9747

中之丸の展望場所。拝島の信玄軍はどう見える?

m85-29-16 F9752

雲霞のごとき大軍のようです。さて本丸に行きます。広場の真ん中に道標があります。

m85-29-17 F9746

本丸との間は、引橋という橋で結ばれています。

m85-29-18 F9757 引き橋

「曳き橋」と書くこともあるようですが、八王子城にもありましたね。本丸が落ちそうになったときはこの橋を引っ込めたり、毀したりして、敵の侵入の時間稼ぎをするための橋です。

橋の上から下を見ると・・

m85-29-19 F9758

石畳の道は、歩いて来た道です。分かれている道は、多分本丸に直接入る道でしょう。明日は本丸にある神社を訪ねます。

広告
カテゴリー: 里山, 公園, 散歩 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中