2014/09/27: 高月散歩;木瓜爺撮歩85-33 茶枳尼天稲荷社と高月城址 (No.2090)

現存する「高月城」というのは、実はラブホテルなのです。看板の写真がどこかにないかと思ったのですが、写していないようです。で、「高月城址」の方の場所ですが、圓通寺の裏山だと言うことは分かっていました。そろそろ10年くらい前になるでしょうか、山頂部をいじっていた時期があり、圓通寺の前の道を車で通りながら、あの工事みたいなことをしているのが、城跡らしいけれど、発掘しているのかなあ?どこから入るのだろう? と、思った記憶があります。ところが、インターネット情報を検索しても、八王子事典では「発掘は行われていない」と書かれているし、個人のブログでは、「発掘調査の結果や横矢を用いた馬出しの特徴から、大石氏が後北条氏に臣従した後に北条氏照による改修を受け滝山城の支城として機能したとする説が一般的となっている。」などと書かれています。多分、小規模な調査は行われたのでしょうが、正式な調査報告書が印刷されていないのか?。

歩いた方の記録ブログを参考にして、現存する「高月城LH」への道を入ります。

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右側に、ホテルへの道がありました。でも車止めがおかれているようです。途中に、赤い鳥居です。こんな所に神社があるということは、地図にもブログ類にも出ていませm85-33-02 F9866ん。お稲荷さんでしょうが、個人持ちではない感じです。行ってみましょう。

小さな社ですが、横に石祠もあります。木瓜爺、吸い寄せられて行きます。m85-33-03 F9867

 

 

 

 

 

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社殿の中には、小さい神殿があって、御札が納められています。この御札が「御神体」相当なのでしょう。ともかく、拝んで・・・拝んでしまいました。これが、重大なことになるともしらず・・・・問題は、この御札に何が書かれているかなのです。現場ではとても読めなくて、PCに入れてから、拡大して読んで、「ヒヤーッ」

「茶枳尼天稲荷」と書かれていたのです。茶枳尼天稲荷というのは、仏教系のお稲荷さん、つまり、豊川稲荷の系統です。茶枳尼天画像豊川稲荷は正式名称「圓福山豐川閣妙嚴寺」曹洞宗のお寺でした。

茶枳尼天の画像をお見せしましょう。どこかで頂いた画像です。ご覧のように狐に乗っておられます。この茶枳尼天は、真言密教の系統にもあるのです。もともと「ダーキニー」というのは、ヒンズー教の女鬼なのだそうですが、かなり危ない神様でして、「民間の信仰ではダーキニーを、妊娠中、出産時、事故、自殺など不幸な死を遂げた女性の霊とする地方もある。生きている女性に取り憑き害をもたらす。」とされています。こんな危ない神様を門前にもつラブホって?・・考えると恐ろしい! さらに、「茶枳尼天稲荷に一度お詣りすると、一生お詣りを続けないと、祟られる」などとも言われています。 えらいことになってしまった!

そんな羽目に陥ったともしらず、木瓜爺はキョロキョロ・・

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神社の横に、反対方向に入る道がありました。あれが、高月城址への道でしょう。霊験あらたか、一発で見つかった! と、喜んでいたので有ります。つまり、赤い鳥居の方に入らず真っ直ぐ進み、左側にある入口を見付ければよい、ということです。

そうそう、先ほどの稲荷社殿の中に、屋根を改修した時の寄附をした方々の名簿が書かれていました。この稲荷社は、付近の方々によって支えられている神社であるということでしょう。

ところで、このラブホ「高月城」の位置ですが、実は「高月城三の丸」があったと推定される場所なのだそうです。で、木瓜爺は、三の丸と二の丸の間の空堀・・多分この道・・を渡り、高月城に攻め入りました。

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二の丸には小屋が出来て居ます。作業小屋のようですが、よく分かりません。右下に井戸跡のような凹みがありましたが、枯れ木が一杯投げられていたので違うかも知れません。 高月城址のことを細かく書かれたブログを拝見しますと、「土塁」「空堀」「井戸跡」があるということです。小屋の外を回り、登って行くと、こんな場所がありました。これが、井戸跡なのかな? 穴はありませんが、雰囲気は持っています。

m85-33-10 F9891 井戸跡?

この先が、暫く登りになります。

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そして、平らな所に到着。

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この辺りが「本丸跡」と見られているようです。東側は個人の畑になっているようでした。道は、もう少し先に伸び、小高い林に消えて行きます。多分、滝山城の砦に続いているのでしょう。

この「高月城」は、武蔵守護代「大石顕重」が永禄年間(1457-1459)に、築城して二の宮の方から移ってきたと言われています。二の宮というのは、多分「二宮神社」のあたりの事でしょう。ほんの少し西の場所です。この「大石顕重」の子供が、「大石定重」といって、滝山城を最初に作ったと言われる方です。滝山城が出来て、ここは廃城になったと思われていましたが、実際は滝山城の支城として使われていたというのが、最近の結論のようです。

またちょっと脱線しますが、3代目北条氏康(氏政や氏照の父)の勢力拡大戦略の一つ、「養子戦法」は面白いですね。通常は、娘を嫁にやって手なずけるのですが、氏康は倅達を養子にやって、乗っ取ってゆくという戦法なのです。氏康には確か7人ほど倅がいます。氏照は三男だったかな? 大石氏に養子にやったのに、北条を名乗らせて完全乗っ取りでした。四男だったと思いますが「氏邦」という男がいます。この人は、寄居にある「鉢形城」の「藤田康邦」に婿入りしますが、「藤田氏邦」と先方の苗字で通します。康邦は別の小城に隠居して、鉢形城は「氏邦」に任せました(Choi-Boke爺ちゃんのブログの「寄居フォトウオーク」をご覧下さい)。・・・もう一人凄いのがいました。七男だったかな「北条三郎」、これが、上杉謙信の養子になって、「上杉景虎」・・そうです。謙信亡き後の相続争い、「御舘の乱」を起こした「上杉影虎」なのです。これは、乗っ取りに失敗しましたけれど・・・すべての仕掛人「北条氏康」って凄いでしょう。

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歩いて来た道は綺麗でしたが、周辺はこんな有様です。詳しく調べれば、何か出てくるかも知れませんね。この辺、空堀みたいな気もします。・・・さて、そろそろバス停に行きましょう。登って来た道を下りました。

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