2014/10/03: 続・檜原村散歩;木瓜爺撮歩87-19 茅倉滝 (No.2096)

檜原村には、多くの民話があるそうです。木瓜爺もつい先頃知ったのですが、「藤原ツジ子」さんという「語り部」がおられて、「檜原の民話」という名前で「日本民話の会」という所から35話ほどDVD付きで出版されているとか・・・35話の中には、少し離れた小河内村(奥多摩湖の湖底になった村)の話なども入っているようです。また、檜原村のミステリーゾーンをあれこれブログに書かれている方も居られます。その話の中で、檜原村には、恐山のイタコと同じような「ウカガイ」という霊能者が数人いたという話も出て来ました。そいうことがあっても不思議でない、歴史や雰囲気をもった貴重な村と云えそうです。一昨日書いた話の続きになりそうですが、檜原村というのは、落人村という見方があります。

確かに、8世紀頃檜原の支配者であったのは、「宿辺少将(やどりべのしょうしょう)橘高安」は高麗人の血筋ですし、小岩の為定舘「源為定」は親王の子つまり天皇家からの落人でした。鎌倉時代には、和田義盛や吉野重季がおわれて逃げ込み、和田集落を作っていますし、数馬のあたりは南北朝の小野氏が逃げ込んでいます。平山氏については後で書くとして、武田家滅亡の時には、ゆかりの一族が神戸集落に逃げ込んだようです。

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随分発展(?)したミズヒキが路ばたに生えていました。それを撫でながら、坂道をくだり、街道に戻ってきました。m87-19-02 F0114m87-19-03 F0115

m87-19-04 F0117そして、払沢の滝入口の方に進みはじめました。「茅倉橋」を渡ります。この辺りに、滝があったはずなのですが・・・ちょっと先に看板が出ていました。m87-19-06 F0119

m87-19-07 F0120道路から20m位、引っ込んだ所に、見えました。近づくのは道でない場所を越えて行くようです。無理しないで、道から写しておこう。何とか撮せました。北秋川に流れこむ支流の沢滝ですから細い流れです。

さて、後は撮す物もなさそうだし、平山氏の話を思い出しながら歩きましょう。

平山城址公園を訪ねて、平山季重という武士のことを学びました。この季重には3人の倅がいます。重村、重友、季武。この三番目の季武は、やはり鎌倉幕府に仕えていましたが、執権北条氏が源頼朝の直系だった武士達をつぎつぎと滅亡に追いやろうとする気配を感じたのか、さっさと引退して、平山に戻ってしまい、執権北条の追求をうまく躱したようです。一応、平井、上平井、大久野などを領地としていたようで、大久野の白山神社や山祇社に記録が発見されたとのこと。地方の豪族にもどって、息をひそめた何代かが流れます。南北朝時代がすぎ、足利幕府の時代、応永23(1416)年、「禅香の乱」というのが起こるのですが、これは前の関東管領「上杉禅香」が、「鎌倉公方 足利持氏」に背いた事件ですが、鎌倉公方に味方した「武州南一揆」の大将が「平山三河守正恭」つまり季武の子孫でした。この「南一揆」というのは野武士の集団みたいな物です。南多摩丘陵にはいくつか「南一揆」が使った山城というのが出て来ます。この時の働きのご褒美ということで、「平山正恭」は、檜原谷を貰いました。そして、また時が過ぎ・・・後北条が台頭して、扇谷上杉と勢力争いをはじめます。上杉が完膚無きまでに負けた「川越の合戦」というのがあるのですが、その少し前に「上杉景虎」が作った武将のリストには、「平山氏重」、「平山光義」の二人の名前が書かれているそうです。川越合戦の前後、檜原城の「平山氏重」は北条方、青梅・藤橋城の「平山光義」は上杉方と分かれてしまうのです。氏重の妹「鶴寿姫」は、光義の妻、・・檜原村役場のそばの「岩舟地蔵」のお話になって行きます。07- 檜原街道散歩;木瓜爺撮歩59-18 本宿・春日神社と岩舟地蔵 (No.1949)

m87-19-08 F0124 話も歩く方も進まなくてはいけませんね。

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「とうげん橋バス停」をすぎ、「檜原小学校前」を通っています。ここは、「小中一貫校」なのですよ。凄いでしょう。生徒数も少ないからねえ・・・

平山氏の滅亡には、後北条の滅亡が重なります。檜原村文化財専門委員会の手による「郷土史檜原村」には、次のように記されています。すこし歯切れの悪い部分がありますので、注意してください。

「八王子城は家老の金子が城主、横地監物が城代家老を務めていたが、落城寸前に横地監物は八王子城を逃れて、檜原城の平山氏重の所に逃げ込む。檜原城は八王子城落城と同じ日に落城し、氏重は敗死。 横田監物と共に一戦して敗北したという説と氏重は戦わずに城を捨て、千足で自刃、監物と氏久は浅間尾根を通って小河内村に逃れたが、そこで自刃。氏重の子、氏久は宗白と改名して檜原に居住したという説もある。」

何だか、支離滅裂ですね。その訳は、次のサイトを見て、察しが付きました。http://hinohara.himawa-ri.net/page2.html

おそらく、このサイトで語られいることが、最も真相に近いでしょう。氏重という方は、藤橋の光義の窮地に際しても、何もせず、見殺しにしています。かなり、優柔不断な人だったのではないでしょうか。それに加えて横地監物という戦えば必ず負けるという経歴をもっているにも関わらず、生き延びることの得意な人が加わったのですから、とにかく「生き延びることを最優先とする」という、平山一族のDNA が働いているはず。歴史書上では平山氏は滅びたことになっているけれど、子孫は沢山生き残っているのでしょう。それはそれで、立派な事だと、木瓜爺は思うのです。

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立派な家? いや、蕎麦屋かな?

とうふ屋「ちとせ」によって、お土産に「おからドーナッツ」と「おからクッキー」を購入。これなら、リュックに入れても問題有るまい。「豆腐」は運搬が難しいです。

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これで、北秋川を下る散歩は終了です。厳密に言うと、藤原の奥に、ミステリーゾーン的な場所が残っているのですが、気力が充実していないときにウロウロして、奇妙なものに憑かれるといけないから止めて置きます。「賽の河原」などいう名前の場所などもあるそうです。・・・そんなことを考えてしまう「檜原村」は、楽しい場所ですねえ。「そう思ったら、また遊びにおいで・・」道の向こうから、お地蔵様が声をかけてくださいました。

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