2014/10/06: 羽村漫歩;木瓜爺撮歩73-25 一峰院と三田将定墓 (No.2099)

「龍珠山 一峰院」については、2014/02/20のブログで、かなり詳しく書いたつもりなので、今回は開基の「三田氏」のほうに重点を置いて書くことにしましょう。

「踊り子草公園」から、一峰院に向かっています。途中にあるこの小屋、昔は豚が飼われていました。前に彼岸花が咲いていますが、昔は毒があるからといって、こんな場所には植えなかったと思うけど・・

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不確かな記憶なので、ブログを書くとき調べてみました。やはり、「鱗茎(球根の部分)」にはアルカロイドが含まれています。墓や田畑の縁などに植えられたのは、この毒性を利用して獣などに荒らされないためだったらしいです。家畜小屋の傍には植えないはずという木瓜爺の記憶は、まんざらデタラメではなかったようです。

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里芋とサツマイモ(?)の間に植えて有るのもそう言う意味でしょうか?

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写している方向が違うのですが、これが一峰院の楼門屋根。右端に人間がいますが、木瓜爺もあの方向から近づいて行きました。

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「鐘楼門」と「本堂」ここの鐘楼門は、前に松の木があるので、写しにくいです。本堂の屋根には鯱がついています。今度行った時、忘れずにアップで写してきます。

冒頭に書いたブログで、本尊のことを書かなかったようです。本尊は文化財指定になっている「十一面観音座像」です。禅林寺のほうが「十一面観音立像」でした。このお寺の開基が、勝沼城主だったと思われる「三田雅楽之助平将定」。それで、今回は、三田家の歴史をおさらいしてみようと思ったのです。

一峰院には、この辺りでは珍しい「半僧坊」のお堂が有ります。

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「後醍醐天皇」の皇子であった「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた静岡県浜松市にある方広寺が半僧坊の本元。禅師につき従っていた男が、薪採りや水汲み、食事の仕度をしていたので、「飯僧」と呼ばれ、のちに「半僧坊」と呼ばれるようになったという。この男は、禅師が中国での修行を終え帰国する途中で嵐に遭った際に禅師を助けたといわれている。・・・だそうです。これは、建長寺の奥山にある半僧坊での説明だったかな? で、実際には、半僧坊像は「天狗」がおかれることが多いようです。建長寺の鎮守でしたね。紅葉で有名な、埼玉県新座市野火止にある「平林寺」にも「半僧坊」堂がありましたが、あそこから西ではこの一峰院まで、木瓜爺はお目にかかっていません。葛飾区小菅にある天台宗の南明山寿福寺観音院では、 准胝観音と並んでご本尊になっていますが、写真で拝見すると、天狗ではなく僧形像のようです。一峰院は建長寺と同じ臨済宗ですが、お堂の中は拝見した事がないので、天狗様かおかれているかどうかは分かりません。 観音様が立つ後ろは、小さな湧水池。

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現在は、清水を竹樋で導いているようです。この池にあるのは、弁天様。祠の中で琵琶を奏でておられました。m73-25-11  F0208

三田家の話は、お墓の前でしましょうか。そこに行く前に、もう一つ観音様が居られます。日中韓三国平和の祈りをこめた観音様です。m73-25-12 F0227

 

 

観音様の前の道を多摩川に向かって進み、阿蘇神社の鳥居の所までゆくと、墓所が見えます。

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ここは、長い間「三田雅楽之助平将定の墓」とされていたものですが、平成19年だったか、平成20年だったかに、羽村市の文化財審議会で検討しなおし、説明文の表現が変わりました。現在の説明をまず見ましょう。

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「伝」というのは、真実ではないが「言い伝えられている」という意味。何が真実でないかというと、供養塔自体が江戸期のものだと分かっているからです。一峰院の開基は応永31(1424)年、つまり三田雅楽之助はその頃の人。五輪塔が作られた江戸初期というのは1604年以降です。ただ、供養塔という意味なら、後から作っても嘘と言うことにはなりません。墓というから怪しくなります。審議会でも、どうしようかといろいろ論議されたようです。結局「墓」という文字を残しましたね。真ん中の大きい塔は、宝筺印塔といいますが、これは江戸中期もので、無理に一緒にされたもののようですね。新編武蔵風土記稿で、三田の墓と書かれたのは、両側の五輪塔のようです。一番右に見える角柱は「水神様」だそうですし、左端の祠は八幡様だそうです。

さて、本題に入ります。

三田氏の出生は定かではありません。平の将門の後裔というのは、三田氏自身で言い出したことのようです。ただ、他家の系図に三田の名前が現れるものが有るのだそうです。この系図自体本物と言えるかどうか分からないのですが、一応信じることにしますと・・・その系図では、平将門の叔父「良文」の後裔から、「相馬氏」が分かれ、相馬弾正忠胤実の子が胤興、胤興の二人の子供が長男「胤勝」、弟が「興秀」とあり、「胤勝」の名の横に「三田弾正 武州三田庄 将門宮建立」と書かれているのだそうです。青梅の将門神社には木瓜爺も行きましたね。もう一人の「興秀」には「師岡二郎 住武州師岡」。三田氏が居住した勝沼城を放棄したあとに作られた城が「師岡城」でしたね。嘘かも知れないけれど、気に成る記述です。「相馬胤勝」が三田家の祖であるかどうかは別として、三田家の名前が出てくる記録では、青梅・勝沼の乗安寺(現在は残っていないように思います)を建立したのが、「三田下総守長綱」で、正安2(1300)年だそうです。ですから、1300年頃から、三田氏は杣保地域のボスになっていたということでしょう。さらに、青梅・今寺の「報恩寺」の鐘奉納は「三田弾正忠清綱」で元享2(1322)年。「長綱」の子供か「清綱」でしょうか?

それから100年後の1424年に「三田雅楽之助将定」の「一峰院建立」が出てくるのです。そして、さらに80年ほど後に、「三田弾正忠政定」が「天寧寺」の鐘を奉納しています。天寧寺は1500年頃の話です。木瓜爺は、「将定」も「政定」も「まささだ」なので、同じ人ではないかと考えた時もあったのですが、調べて見たら明らかに年代が違っていました。

m73-25-17 F0247三田家の全盛期は「永正年間から天文年間」 つまり、1504~1554年と言われています。「政定」の祖父あたりだと思いますが、「勝沼城主 三田弾正忠 氏宗」という人は「山内上杉」の一武将として活躍し、高麗郡、入間郡あたりまで支配しています。「氏宗」の子は「政宗」ということは、永正6年(1509)年、勝沼城に15日間滞在した島田宗長という連歌師の書いたものが残っているそうです。この時代、武蔵国は、高月城に大石氏、檜原城に平山氏、草花に小宮氏、勝沼城に三田氏と群雄割拠だったのです。木瓜爺ブログの登場人物が勢揃いしていますね。三田家滅亡まで書くと大変なので、最盛期までにしてきますが、そのうち、きっと続きを書くことになるでしょう。明日は、阿蘇神社に顔出しします。

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