2014/10/07: 羽村漫歩;木瓜爺撮歩73-26 阿蘇神社の彼岸花 (No.2100)

阿蘇神社のお話は何回も書いているのですが、おさらいしながら歩きましょうか。

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この時期、参道は、彼岸花に彩られます。木瓜爺は毎年のように、巾着田の彼岸花を写しに出かけていたのですが、今年は省略になりました。その最大の理由は、羽村で彼岸m73-26-02 F0251花を見過ぎたためでしょう。巾着田のような密集はありませんが、単花を写す分にはわざわざ出かけるまでもないという気分になってしまったのです。ただ、羽村は蝶がからんでくれないの、詰まらないことも分かりました。巾着田のアゲハチョウが懐かしい・・

阿蘇神社の表参道ともいうべき、川沿いの道は、こういった桜の木もあります。彼岸花の生え具合によっては、面白い図柄になりますので、丹念に見て歩く場所です。 今日はあまりカメラマンは入っていないようですね。まだ時間が早いのかな?

神社の石段が見えて来ました。 m73-26-03 F0255

「阿蘇神社」の不思議は、推古天皇の御代9(601)年という創建にあります。「武蔵阿蘇神社のしおり」には、こう書かれています。「神託により、村中の最良の地に清地を築き霊物を鎮め齋き祀ったのに始まる」。

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あとでちゃんと書きますが、「阿蘇神社」というのは九州の阿蘇山付近から来ているのです。601年というような時期に、阿蘇の神様の神託を受けられる「受信者」がいたことが不思議なのです。木瓜爺は漠然と、「防人」にかり出された人の情報かなあと思っていました。しかし、調べて見ると「防人」という徴兵制度が出来たのは、663年の「白村江の戦い」に破れ、日本が攻められるかも知れないという危機になってからです。その60年前に、九州阿蘇の神様がそうやすやすと羽村に来るはずがない! だからこそ「神託」なのでしょうが、すげーなあ・・です。

創建後、将門が社殿を造営、敵の藤原秀郷も社殿を造営、これが940年。以降、1354,1489,1536と改修などが続いています。1536年のは、三田掃部助定重です。この時の棟札に「七度造立」の文字があるそうです。

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これは石段脇のお稲荷様。こんにちわ! と、挨拶して石段を上がります。

阿蘇神社が創建された600年頃というのは、どういう時期かというと、「聖徳太子」の頃なのです。この頃、日本の大和朝廷への権利集中(?)が行われています。そのことと、神託が関係あるかもしれません。

ちょっと九州の状況を説明しておく必要があるのですが、まずは神社縁起に書かれて祭神を紹介します。主神である「阿蘇大神」という神様は「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」といって、「神武天皇」のお孫さんです。この方は、神武東征のとき、九州「肥の国」統治を命じられ、阿蘇に入ります。そこで、地元の神様の娘「阿蘇都媛命(あそひめのみこと)」を嫁にもらい、肥の国を治めます。二人の間に生まれた子供が「速瓶玉命(はやみかたまのみこと)」です。「阿蘇都媛命」の両親は「国龍神(くにたつのかみ)」と「比咩御子神(ひめのみこかみ)」。「速瓶玉命」の第一皇子が「彦御子神(ひこみこのかみ)」、その妃神が「若比咩神(わかひめのかみ)」。「国龍神」の第一皇子が「新彦神(にいひこのかみ)」。その娘が「新比咩神(にいひめのかみ)」その弟が「若彦神(わかひこのかみ)」。「新彦神」の妃神が「弥比咩神(やひめのかみ)」。最後の一柱は、神武天皇の後の第二代「纓靖天皇」こと「金凝神(かなこりのかみ)」。大勢居られますが、要するに「阿蘇家一族」なのです。これが、神話の世界側からみた状態。

m73-26-06 F0261阿蘇神社

で、考古学に近い方向からみた九州の状況に移ります。この説は100%認めれたわけではない「推論」的なところがあるようですが、関係があって面白いので紹介したくなりました。時代は4世紀にさかのぼりますが、吉野ヶ里遺跡などで、存在を認めれている「筑紫王国」というようなものがありました。これが初期の「邪馬台国」に相当する文化圏だったと思われます。その南側には、魏志倭人伝では「狗奴国」に相当するのでしょうか、「阿蘇王国」というか「火の国」(「肥の国」)の文化圏があったようです。「火の国」という文字が使われたのは、火山「阿蘇山」があったためとか・・これが、実は阿蘇神社に住む神様の国だったようなのです。聖徳太子の国書と教わった「日出るところの天子、日没する国の・・」は、この「肥の国」からの文書であるという説を唱えておられる方も居られますが、時代的に合致するのかどうか? いずれにせよ、こういった異なる王国が統合されつつ、日本という国を形作っていったのでしょう。文化圏と書きましたが勢力圏かも知れません。

さて、6世紀から7世紀への変わり目、推古天皇や聖徳太子の時代というと、大和朝廷が乱れた時期でもあります。推古天皇というのは「女帝」。物部と蘇我氏の勢力争いの巻き添えで皇子達が次々と暗殺され、先々代の皇后であった「額田部皇女」が即位せざるを得なかった・・これが「推古天皇」でした。そして、宗教にも大きな変化を生じています。仏教上位の政策です。朝廷の勢力争い+神教弾圧(?)、この二つが絡んで、「阿蘇大神一家」を東に追いやった・・いや、東方の開拓に向かわせたのかも知れません。元々、日出る国ですから、東に進むのは自然な流れです。阿蘇神社は全国に450あるそうですが、どの時代にネットを広げたのか、ちょっと興味がありますね。中世に「阿蘇氏」が武家として活躍した頃でしょうか? 書き忘れていましたが、阿蘇神社の本社に当たるのは、阿蘇山近くにある、「阿蘇神社」で、創建は「孝霊天皇9年(紀元前225年あたり)」。ただし、この孝霊天皇は日本書紀あたりの歴史引き伸ばしに加担している天皇の一人で、110年くらい生きています。

羽村・阿蘇神社の詳しい紹介は、どれが良いかな? Choi-Boke爺ちゃんのブログの方に一つリンクを付けておきましょう。 この翌日にも続いています。

12月27日: 羽村散歩3(阿蘇神社1)

紅葉の写真は、12月4日:木瓜爺撮歩50-3 阿蘇神社の紅葉  (No.1427)

だったと思います。この神社の天然記念物はシイの木。

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ここに書かれている、下に垂れ下がった枝というのが、意外に写しにくいのです。

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これが手水舎の所から写したもの。下におりて、下から写してもみたのですが、意外に迫力ありません。下の方は枝が細くなってしまうからでしょうね。

藤原秀郷手植えのシイに別れを告げて、来た道を戻ります。

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おお、お仲間が現れました。

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やっとりますな・・あれあれ、雑草が気に成るのか、辺りを踏みつぶしはじめました。m73-26-11 F0288草が可哀相! カメラマンってどうしてこうなるのでしょうね。草を除けるのは良いけど、自分で復元できる範囲の力でやめておいて・・・それに、これから咲こうとしている別の小さな花が隠れているかも知れないのに・・

境内を出て、大正土手に戻り、歩いていると、「カワラノギク育成畑」に異変を発見!m73-26-12 F0292

 

いつの間にか、彼岸花の苗床(?)になって、赤い花が咲いていました。カワラノギクあきらめたのかなあ?・・・・
阿蘇神社の創建年にこだわったブログだったのですが、突然、思い出したことがあります。明日はそれを確かめに参ります。

 

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