2014/12/20: 続・国分寺市散歩;木瓜爺撮歩95-04 福寿山 無量聚院 観音寺(観世音寺) (No.2174)

「寶壽観音」の所からも境内に入れますが、多分これは勝手口(?)なのでしょう。ちょっと先に、新しい感じの山門が出来ていました。

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この山門の所にあるのが、「観世音寺」の石碑なのです。どちらが正しいのか分からないので、観音寺のホームページを見ましたら、「観音寺(観世音寺)」という書き方になっていましたので、ブログのタイトルもそれにならいました。真言宗豊山派だったと思います。

その表札?の両側に、さらに石碑が見えます。向かって左側のは、「観音菩薩」を意味する種子が彫られています。右の方は「普門品・・」観音経を意味する語句のようです。

m95-04-15 F7170m95-04-16 F7172観音碑

「観音寺」のホームページを拝見すると、かなり現代的(?)経営をされているお寺のようです。

寺の由来については、次のように説明されていました。

『当山の始まりは後北条氏との関わりが強かったようで、八王子の滝山城の鬼門(東北方)を守る寺として現武蔵村山市の地に創建されたという伝えがあります。
創建の地にはまだ「観音寺」の地名が残されていますが、江戸中期新田開発に伴い現立川市栄町周辺に移転。ただ、当時は大雨が降ると池の様になってしまう水捌けの良くない地域だったので、現国分寺市西町の国分寺崖線上の地に期間を空けずに移転したそうです。現在の地に移築されたのは享保年間(1716年~1736年)、およそ290年前であると伝えられています。』

武蔵村山で創建され、立川に引っ越し、さらに国分寺に移転・・・国分寺崖線上に来て、また崖線下に移築したのかな? 現在地は崖線の下段だと思うのですが・・・

m95-04-01 F7173 観音寺山門

山門については、このように書かれていました。『山門:扉と骨組みは、鎌倉時代の作と伝えられています。 八王子の滝山城にあったものを移築したといわれる由来があります。』 でも、何だか少し違うような気もします。もしかすると、元の門の説明が残っているのかな?

この門の前が賑やかなのです。両側にお地蔵様が整列されて出迎えて下さいました。

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この門前といい、昨日の墓地といい、お地蔵様が異常と云えるほど多いのです。歴史的な背景があるのでしょうが、今のところ、よく分かりません。コントラストが強すぎて、うまく写りませんねえ・・・

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向かって左側の「六道地蔵」の方が新しいようです。右側が古くて傷んできたので、新調したということでしょうか? 後ろの方にも石仏がおかれていますね。木瓜爺としては面白いのですが、先に進みましょう。山門をくぐった左側に鐘楼があります。

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「除夜の鐘」に向けての整備なのでしょう。工事が行われていて、撞木がそっぽを向いていました。この鐘楼についても、ホームページに解説があった・・・

『東京都指定保存梵鐘:八王子の鋳物師の作であるといわれています。
観音寺の梵鐘の由来:大戦の折りの金属供出を免れ鋳造当時の姿が健在です。
宥性和尚の代に作られました。奉納者名が梵鐘の周囲に彫り込まれています。
梵鐘の「梵」とは梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものです。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれます。』・・・ここは、和鐘ですね。

山門のところから、正面に本堂が見えます。

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この本堂については、『平成22年には屋根瓦を軽量高強度のチタン材に葺き替え耐震性を向上し、本堂内部も幾度かの改修を重ねながらも基本的には建立当時からの部材を補強するなど、可能な限り建立時の面影と部材を残す工夫をして今日に至っています。 』だそうです。本尊は「聖観音」でしょう。
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この右となりに、寺務所に使われている建物があるのですが、そちらの方が、年季の入った建物に見えます。前にはいろいろ並んでいて、賑やかです。

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この横が、墓地への入口になっているようです。そこにも、お地蔵様が居られました。

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そして、「白鳳閣」、これは「檀徒会館」と書かれていました。「斎場」でもあるようです。昔の建物の「鬼瓦」に相当する部分らしき瓦が飾ってあります。この斎場は、グランドピアノなどもおかれていて、いろいろなタイプの葬儀に対応出来るようです。

m95-04-13 F7162 白鳳殿

このお寺のホームページは、多面的に作られているので、結構楽しい(?)頁になっています。そう言えば、昨日はてな、はてなと悩んだ「川崎平右衛門」の経歴も書かれていましたよ。

『川崎平右衛門略歴
1694年(元禄7年)現在の府中市押立町で名主の子として誕生した。1716年(享保元年)、八代将軍・徳川吉宗によって「享保の改革」が始まり、この年、平右衛門は 栗の実を将軍吉宗に献上した。 平右衛門は、府中市の原野を開墾して栗林を作ったり、 押立に竹林を栽培し、水害防備林として機能させることにより、多摩川水防の強化を図った。
享保7(1722)年、82ヶ村に新田をつくり、石高11万2千石の増収を図る武蔵野台地の開発が始まった。
1740年(元文三年)、一連の功績により大岡越前守から農民扶助の功により名字帯刀を許され、 さらに武蔵野新田開発の世話役を命じられた。北(現・鶴ヶ島市)と南(現・小金井市)の2か所に陣屋を 設け、新田開発の拠点とした。北の陣屋跡は残されているが、小金井公園近くにある南の陣屋跡は、 残念ながら無くなってしまった。また職務怠慢などの理由で水元役を解任された玉川兄弟に代わり、玉川上水の維持管理にも深く携わった。
21年間で約500町歩に渡る新田を開発した平右衛門は、その功績により 1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。
1745年(延享2年)多摩での実績が認められて、正規の代官として美濃国本巣郡へ支配がえとなり、四万石を支配した。 ここは輪中堤防を廻らした洪水地帯で、治水工事に功績を残した。
平右衛門は1762年(宝暦12年)、石見銀山の石見国大森代官を任じられた。
1767年(明和4年)、勘定吟味役兼諸国銀山奉行となった。同年6月、73歳で没した。 』

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これを忘れていました。このお寺は、「多摩新四国88ヶ所霊場」の27番になっています。木瓜爺は気が付かなかったのですが、どこかに例の「弘法大師と観音様」のお堂があったかも知れません。あるいは、寺務所の建物の中かもしれませんが・・・

「新編武蔵風土記稿」では、「中藤新田」の「観音寺」として、『除地、二段、村の東寄にあり、郡中中藤村真福寺末、新義真言宗、福壽山蓮華院と號す、客殿七間半に五間西向なり、門柱間八尺、門の前に石階二十級あり、本尊観音木の坐像長三尺、開山廣天寂年を傳へず。
鐘楼。本堂に向ひ左の方にあり、八尺四方、鐘は近き比鋳造せり。』とあるそうです。 当時は「蓮華院」だったのですね。

m95-04-17 F7197では、こんな所で、「観音寺」を辞します。

国分寺市の新田地域には、まだお寺があります。北町の「妙法寺」と並木町の「黄檗宗鳳林寺」は五日市街道をはさんで直ぐ近くに建っています。日を改めて、お詣りに行く事にします。

明日からは、西に移動して五日市街道の「西砂」あたりをうろつくことにしましょうか?

いや、先に「泉岳寺界隈」を纏めたほうが良いかな? ちょっと考えます。

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2014/12/20: 続・国分寺市散歩;木瓜爺撮歩95-04 福寿山 無量聚院 観音寺(観世音寺) (No.2174) への1件のフィードバック

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