2014/12/26: 続・国分寺市散歩;木瓜爺撮歩95-05 北町・愛宕神社 (No.2180)

実際に歩いたのは、12/15のことです。「観音寺」に行った時、「妙法寺」というのがあると分かって、旧榎戸新田・・五日市街道沿いの場所を歩いて見る事にしました。国分寺に住んでいた木瓜爺ですが、中学校からの帰り道は反対方向なので、榎戸新田には「食糧難時代に買い出し」に来たくらいのm95-05-01 F4165記憶しかありません。西武国分寺線の「鷹の台」駅は、子供達の幼稚園や学校があったので、一応おなじみ。一つ国分寺よりの「恋ヶ窪」駅は、通っていた中学校の脇ですが、当時は駅はなかったかも・・駅の記憶がありません。

五日市街道は、この二つの駅の真ん中あたりを通っています。鷹の台駅を降りて、南に向かいます。賑やかになっていましたが、すでに斜陽方向らしいです。開いていない店が出始めていました。

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「鷹の橋」というのは、「玉川上水」にかかっている橋の一つ。ここで右折し、上水をさかのぼります。しばらくは、玉が上水の「紅葉」を見てください。12/15ですからね。m95-05-03 F4172

 

 

 

 

 

 

この日は、X20というカメラ1台で歩いていたのですが、チョイボケが発生していまして、メディアの消去を忘れていた上にバッテリーの充電も忘れていました。というか、充電していないバッテリーを、充電してあるバッテリーだと思って持って来たのです。写していたら、「内蔵メモリーがいっぱいです」というメッセージが出て来て、「なに? そんなバカな!」 このカメラ、SDが一杯になると、カメラ自体の内蔵メモリーに仕舞ってくれるのです。27枚ほど入ります。いきなり、それが一杯になったというのです。

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参ったなあ・・・メディア入れ忘れたのかなあ・・・開けてみるとSDは入っています。消し忘れていたのか・・・歩きながら画像を確認しては、消去ボタンです。橋を渡って上水を離れ、五日市街道に向かいます。五日市街道沿いの欅並木を遠望しながら、「愛宕神社」の入口を探しました。確か裏側から入れたはず・・・畑の横にあった「農作物直売所」におられた「年取ったお嬢様方」に伺うと、今は「五日市街道側」からしか入れなく成っているという話。それでは、とにかく「五日市街道」に出ましょう・・・

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やっと、メディアの整理が出来ました。最初の一枚は、綺麗な紅葉にしました。五日市街道に出て、西に向かいます。すぐに、目指す「愛宕神社」につきました。

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この神社も、名前がいろいろ変わった神社です。ちょっと証拠を見せましょう。写真に写っている灯籠なのですが・・・m95-05-08 F4195仙元宮

 

 

 

 

 

 

 

 

「仙元宮」と彫られています。これは「浅間神社」の事です。

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(榎木戸新田)新明社
愛宕社
社地除、一段一歩、村の東寄にあり、社四尺四寸、拝殿二間に三間、上屋二間半に三間南向なり、神體将軍地蔵木の立像にて長二尺許、里正源蔵が持なり。
浅間社
社地除、一段四畝廿一歩、村の中程にして北寄にあり、小祠なり、持前に同じ。(新編武蔵風土記稿より)

「愛宕社」は「個人持ち」として「新編武蔵風土記稿」に出て来ますが、「浅間社」は別の場所にある「小祠」で。同じ人の持ちになっています。「愛宕社」のご神体が「将軍地蔵」だというのが面白いですね。両方合わせて「新(?神)明社」と呼ばれていたのでしょうか? ここから東の方、数百メートルの所に「神明宮」があるとも聞きましたから、別の神社のことでしょうか?

「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」では、『国分寺市北部に位置する北町は、江戸時代前期に開かれた五日市街道に沿って広がります。この集落は江戸時代中期の新田開発により成立したもので、享保7(1722)年発願の野中新田、翌年開発の榎戸新田よりなります。現在の町は東西に通じる五日市街道に沿って整然とした地割が残りますが、野中、榎戸両新田は複雑に入り組み、この内、榎戸新田の鎮守が今回調査した愛宕神社となります。榎戸新田は奥多摩町大丹波の榎(木)戸覚(角)左衛門が開いたとされます。多くの新田村では親村の神社が分社されますが、親村とされる大丹波に愛宕社はなく、隣の小丹波に愛宕神社が位置します。
愛宕神社の来歴は、明治10(1877)年の「愛宕神社取調書上帳」、明治12(1879)年の「神社明細帳」(東京都公文書館所蔵)とも村の開発に際して享保10(1725)年勧請とします。江戸時代の史料では宝暦9(1759)年の「神社御改メ書上帳控」に「御除地…鎮守愛宕社…社人別当無御座候」とあり、近代以後では、明治6(1873)年5月に村社とされ、明治29(1896)年、愛宕神社と改称しました。
愛宕神社は東西に走る五日市街道の北側に社地を置いて、街道に面して鳥居を構えます。参道は敷地北側に延び、その東側傍らに社務所、西側に神輿庫を置き、突き当たりに本殿拝殿、本殿(覆殿)等を南面して構えます。』

新田開発に伴って、勧請された神社であることは間違いないようですが、大元が「奥多摩町小丹波」の「愛宕神社」かも知れないというのも面白いですね。木瓜爺ちゃんと歩いていますよ。

17- 奥多摩町古里を歩く;木瓜爺撮歩71-04 小丹波・愛宕神社  (No.1777)

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m95-05-10 F4197社殿は奥まった所にあります。左に見える建物には、「大太鼓」などが収められていました。右の建物は社務所です。m95-05-11 F4199

石柵の内側、左の方に小さな小屋が見えますね。あそこに思わぬ住人?がいました。m95-05-20 F4213

 

よく分からないのですが「神馬」のようです。「将軍地蔵」といい「神馬」といい、武家の名残を感じます。

さて、お詣りしましょう。

祭神は「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」が主神で、浅間社の「木花開耶姫命」が居られるのでしょう。

 

m95-05-12 F4201 愛宕神社

狛犬もおります。「吽」が「子獅子」を抑えた形です。

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社殿は、前が祈祷殿で、後部に神殿の覆殿でしょうか?神棚と御神体かも知れません。m95-05-17 F4210神殿の後ろの境内を見ると、金網が張られて仕切りが出来て居ました。裏から入れなくなったという意味が分かりました。

社殿横の神木。大銀杏でしょう。注連縄を付けた木は、かなりの老木のようです。

境内社をもう一つ見付けました。こちらが古いものらしい「御嶽社」です。m95-05-18 F4211御嶽社

 

 

 

 

 

そして、もう一つ、新しい「御嶽社」です。m95-05-21 F4214

 

 

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「手水舎」を写してありました。一応入れておきます。最後に「由来書」なのですが・・・内容はすでに書いたことのようです。宮大工のことが新しい情報かな?

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改築担当は、檜原村の宮大工なのですね。

ふと思い出したのですが、この神社の境内を横切るように、玉川上水からの分水が流れていたはずなのです。探して見ると、窪地が残っていました。水路としては、埋められてしまったようです。

 

では、こんな所で、いよいよ「妙法寺」に行って見ましょう。少し西にある筈です。

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