2014/12/31: 続・国分寺市散歩;木瓜爺撮歩95-10 内藤神社 (No.2185)

戸倉通りを「恋ヶ窪駅」の方に進んでゆくと、バス停がありました。

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「ぶんバス」というのは、多分「国分寺」の「分」でしょう。国分寺市の経営するコミュニティバスです。バス停名はずばり「内藤神社」。この近くであることは間違いないのですが・・・住宅の奥の方に「ちょっと大きな木」が見えますから、あっちの方に行ってみよう。m95-10-02 F4376

脇道に入って行くと、住民が出て来られたので、早速お尋ねしますと、突き当たりを右へ、と言うことでした。

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成る程、あそこのようです。このとき、カメラのバッテリーが赤信号を出していることに気が付きました。立ち止まって、鞄の底から、予備バッテリーを取り出して、交換。

ところが、「バッテリーなし」の表示。何を寝ぼけているのだ?極性間違えたら入らないはずだし・・詰め直しても駄目です。どうも、充電するのを忘れていたらしい・・・これは一大事です。仕方がないので、赤信号バッテリーに戻して、撮せる所まで撮してお終いにする、と覚悟を決めました。以下、数枚、どこまでもつか・・・

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「内藤神社」の正面です。「新編武蔵風土記稿」では、『(内藤新田)山王社
社地除、一畑十歩、字窪にあり、覆屋三間四方、内に小社を置、神體白幣なり、華表兩柱の間九尺、村の鎮守にして村民の持なり。稲荷社。天王社。山神社 皆小祠なり、本社の左右にあり』

「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」では、『内藤神社は日吉町四丁目に位置します。内藤新田は府中本宿村の内藤治助が享保9(1724)年に割当地を受けたのが始まりで、本格的な開発は享保14(1729)年とされています。神社はやや下った享保19(1734)年、近江日吉山王宮を勧請した(『北多摩神社誌』)ことに始まるとされ、江戸時代は「山王宮」の名称で、明治2(1869)年、内藤神社と改称されました。江戸時代は国分寺が別当、明治維新後は府中本宿稲荷社、続いて大國魂神社の神職が社務を勤めました。
境内は日吉町四丁目交差点から300メートル程北に入った場所に位置します。鳥居を潜った正面に社殿が南面し、南東側に石祠の稲荷社、南西に昭和24(1949)年建築の太鼓堂、北西に昭和35(1960)年建築で石祠の山ノ神が配されます。
現在の拝殿は明治26(1893)年建築とされ同年銘の神鏡台も残ります。昭和58(1983)年トタンから銅板に屋根を葺替え、平成9(1997)年になって本殿覆殿を増築しました。』 と、なっています。

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社務所の横に境内社があります。「稲荷社」でしょう。m95-10-07 F4385

写真は撮せないけれど、お詣りはしておこう。「山王社」だったと言いますから、祭神は「大山祇神」。この神社は合っています。戸倉神社のような混乱は生じていません。国分寺市の説明にあるように、別當が武蔵国分寺で、神官は大国魂神社から来ていたということですから、分離もスムーズに出来たのでしょう。

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境内の小祠。「山神社」「天王社」ですね。覆殿の中はカメラが動いてくれないので省m95-10-05 F4383略。 暫くすると少し回復するらしいので、この石は何だろな? で一枚。文字が沢山彫られていますが、中央に大きく「庚申塔」と有ります。

スイッチを切って、鳥居の所でサヨナラの最敬礼。ふと横を見るともう一つお堂みたいなものが見えました。

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足元に何か書かれています。これが最後の一枚!

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「御門訴事件 殉難の碑」です。この同類は、武蔵野市関前、三鷹の井口、小平にも有りましたね。木瓜爺はあまり詳しくないのですが、「社倉御取立」ちょっと説明しておきましょう。「社倉」というのは、「飢饉などの緊急時食料備蓄倉」だと思ってください。そういう貯蔵制度は、前からあったのですが、明治2年に、増税した新制度ができて、管轄官庁が「品川県」だったのです。古賀知事というボスが、品川県管轄の「武蔵野新田12ヶ村」に、納めるよう命令したのです。こんな「高い税」はとても無理ですと、日本橋浜町の品川県庁の門前に嘆願(門訴)を行なったのが、明治3年の「御門訴事件」。農民数百人が青梅街道をデモして、浜町に向かいましたが、内藤新宿で警察に阻止されます。それでも、若干名は潜り込んで県庁前に到達します。県側は門を開き、話があるなら入れというのですが、門を入ると「強訴」ということになるので、門前で「門訴」・・「嘆願」をします。古賀知事がカンカンに怒って、訴えの首謀者を探索させ、関前新田名主忠左衛門以下、各村の責任者は捉えられ、多くの人が獄死します。ひと月足らずで「獄死」ということは、ひどい扱いがあったという事でしょう。西の方の農民達の力(長州軍など)で、行われたと称する明治維新という革命も、実は嘘っぱち、農民は利用されただけでした。実態は何も変わらなかった・・いや、東の農民にとっては、むしろ悪化だったのでしょう。後に、「品川県責任者」も警察に呼び出されて取り調べられましたが、罰は村役人や名主、農民側ばかりだったようです。まだ「むちうちの刑」などがあった時代です。・・・乏しい知識なので、誤りが有るかも知れません。

バッテリーも上がってしまいました。・・・・ 今年は、これでお終いにしましょう。一年間、ご愛読を賜り、ありがとうございました。来る年が、皆様に良い年でありますように・・・

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