2015/01/06: 芝界隈;木瓜爺撮歩94-09 増上寺の子院(2) (No.2191)

大門の交差点には、「大門ホテル」があります。そこも何回か泊まっています。その大門ホテルの直ぐ隣からはじめましょう。

m94-09-01 F2240浄運院

「浄運院」というお寺です。潜り戸が開いていたので、ちょっと覗きました。

m94-09-02 F4487 浄運寺

12月18日だったのですが、ご覧のように銀杏の葉の絨毯が出来て居ました。突き当たりを左に入ると本堂のようですが、今回はご遠慮致します。増上寺史によると、『子院第二十五号は浄運院である。大門を入る左側安養院の束隣り桜川に沿っていた。開山上人は古山栄誉である。前に記したように山内昌泉院と同じ開山上人であった。十一世立賢は雲晴院に転じている。諸堂は文化三年炎上の後、約十ケ年にして再建されたが、文政二年四月十七日夜類焼し烏有に帰している。庭は名園であった。寺院名のように、声明寺であると共に念仏の声は絶えなかった。上杉弾正大弼、上杉駿河守、真田弾正大弼、内藤主殿頭等の宿坊であった。』なのだそうです。 ちゃんと「寺名」もあるようですね「浄運院声明寺」?

m94-09-06 F2250安養院

お隣が、「安養院」です。「安養精舎」という額がかかっています。増上寺史では、『子院第十六号は、安養院である。大門をはいり左側に位置し、山上人は当林(貞誉)であった。 南谷の入口角にあり東隣りは浄運院でる。当院の四世恕哲(法誉)、十一世了察(弁誉)は、いずれも源宝院から入住職している。 はじめの諸堂宇は、宝暦十二年二月十六日炎上、ついで文化又焼失した。文化三年焼失後は、特に材料を吟味し入念に諸堂を再建し、人目をおどろかすものがあった。しかし文政二年四月十七日の夜半また炎上してしまい、僅かに門と庫を残したのである。』

通りの向かい側に、ちょっと大きな院があります。横断歩道はないので、注意して見に行きます。

m94-09-03 F2243 花岳院

「花岳院」と言います。増上寺史には『子院第四号は、大門の内大門しより右側にある花岳院である。同院ははじめ今の寛内より北方に位置していた。開山上人は増上寺六世知雲上人である。上人は相州の人、三浦太郎衛門秀久の庶子であった。幼少病身の為め縁家である武州岩槻土田城主太田氏に寓居していたが、後土御門天皇の延徳の末の頃花又村モ増上寺五世了聞上人の説法をきいて感激、出家し門弟となった。
『山志』にはつねに師の座下を離れず、「一宗の経釈究練」と伝えられ、専心修業に精進したのであった。また和歌を好み、了誉上人・音誉上人に私淑していたが文亀二年二月十二日増上寺六世の住職に任ぜられたのである。』また、『当院には火消地蔵尊を安置する。像は厨子入り御丈が一尺八寸あり、聖徳太子の御作なりと伝えられる。太子は秦の川勝に与えられたが、その尊像はいつしか関束の豪族相州三浦義盛に伝持された。三浦泰村の時、三浦氏減亡し、尊像は芦名氏に伝わり会津の域中にあった。
天文の末の頃、伊達政宗が芦名盛隆を攻め減したのである。盛隆の一族三浦出雲は、その尊像とともに関束は下総飯沼の地に落民して農業を営んでいた。庄之助の時隣家より出火し、まさに類焼せんとしたのである。その時誰とはなしにぎたり現れて消火につとめ、火難を逃れた。誰人をもわからず世人は、この尊像なりと噂したのである。事実尊像が人となって防火につとめたのであった。火消地蔵尊とし、庶人の帰依をうけ霊験はあらたかであったのである。貞享三年館沼弘経寺方丈古巌。
流誉上人が台命を奉じて、増上寺三十一世の住職に任ぜられた。上人は火消地蔵尊を乞いうけて山内花岳院に安置したのである。』 とも、記されています。

m94-09-04 F4494 花岳院

m94-09-05 F4495

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内には、観音様も居られました。

m94-09-07 F2253 源流院増上寺前の広い通りに出ましたので、この通りに面した院を見付けに行ったのですが、例えばこんな事になっています。増上寺前交差点の北側にある「源流院」です。完全にビル化しています。増上寺史では、『子院第十二号は源流院である。御成門の入口にあった。開山上人は林応である。彼は転蓮社法誉と号し、寛文十五年三月十八日西化している。林応の師表は存応普光観智国師であって、愛弟子の一人である。徳川家康公の江戸入府に当り、青山播磨守忠成と三河国から同道して入府した。後に増上寺が貝塚台から現在地に移転に当り、増上寺造営奉行青山忠成のよき相談役となっている。・・・同院には青山忠成父子の墓があm94-09-08 F2257 天陽院る。』

次のは、位置的には増上寺前交差点の南側の「天陽院」。もう寺の感じは無くなっています。増上寺史では、『聞山上人は生誉珍公である。増上寺闘山酉誉上人の一族千葉満胤の息であった。応永二十一年、日比谷飯倉に一宇を建立、浄土宗念仏の伝道に当り、法誉たがく自他宗の碩徳も帰依していた。永享三年上烙、紫衣を賜うと伝えられる。宝徳元年十二月二十五日入寂された。増上寺が現寛内に移転時、子院に列せられたのである。 』

m94-09-09 F2260 源興院

もう一つ有りました。「源興院」だそうです。これは「増上寺史」では見つかりませんでした。このように、沢山の院があって、それぞれ歴史が記録され残されているというのは驚きでした。

m94-09-10 F4505

おなじみの増上寺山門は目の前にあります。でも、少々歩きくたびれたので、手前で小休止します。道路脇に小公園が細長く続いています。

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「芝」というと、落語の「芝浜」で知られるように、浜辺でした。松も沢山生えていたのでしょう。それをほんの少し復元しようという試みがあるようです。

m94-09-13 F4508

ベンチで一服。後ろを見ると、ここにもお堂の様な物が見えました。「常行院」とか「観智院」とかいう院がこの辺りにあるようです。ただ、見えている表札は個人名でした。

m94-09-14 F2266

一休みを終えて、いよいよ増上寺に入ります。

m94-09-15 F2270

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横断歩道はどこだ? かなり向こうですね。

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