2015/02/24: 国分寺から小金井へ;木瓜爺撮歩95-14 貫井プール跡 (No.2240)

昔を思い出してブログをかいていますと、妙なことを思い出すことがあります。今日はちょっと脱線したところからはじめます。

m95-14-00  F6174東経大

これは、東経大の正門です。国分寺に住んでいた木瓜爺が、大学受験を考えていたころ、当然のことでしょうが自宅から通える大学として、ここが意識の中にありました。

ただ、木瓜爺の通学していた立川高校(元は府立二中)では、先輩達の進学先は経済学を学ぶなら国立(くにたち)の「一橋大学」、政治に進むなら当然「東大」、工学系の国立大学なら「東工大」という具合に、一流校が並んでいました。私立大では「慶応」「早稲田」・・・木瓜爺の家庭は、私立に行けるほど豊かではなかったので、「東経大」は滑り止めからも早々と姿を消しました。たまたま、当時の「共通一次」のような位置付けの「インテリジェントテスト」とかいう試験で、木瓜爺は、運良くかなり良い点を頂いてしまい、この結果を有効利用しようということで、理系に進む方向に舵を切ったということも有ります。ところが、不思議な事に、夢の中で、何度か「東経大」に足を運んでいます。何か、受験のための補習授業のようなものに参加しているのです。そういう催しが実際にあったのかどうか分かりませんが、夢の中で何度かお世話になったのでした。当時は「○○塾」というような予備校的なものは数が少なく、どちらかというと「塾」は浪人対象の学問所だったように記憶しています。何とも変なことを思い出してしまいました。

m95-14-01 F5676現実にも戻って・・・「貫井南町」だそうです。もうすぐだと思います。

あの辺だな・・と、思ったとき、左の山から下って来る道がありました。その坂の途中に、庚申塔の様な物を見つけました。m95-14-02 F6163

青面金剛のようです。下に三猿が配置されています。年号の様な物が彫られています。読めるかな?

m95-14-03 F6164

「正徳元年」でしょうか? 1711年ですね。6代将軍徳川家宣の頃です。結構古いものがあるなあ・・青面金剛刻像は福井県にある正保4年(1647)が現存最古だそうですから、64年後ですよ。

神社の社務所のような家があり、その前に「湧き水」が有ります。こう言うのは、この付近あちこちにあるのですが、「貫井プール」というのは、こういう「湧き水」を水源としたプールだったのです。m95-14-04 F6159

これも水源だったのかなあ? 記憶によると、水源を見に行こうと、プールから少し山に入ったような記憶があるのですが・・・高い所に上がった感じは残っていません。植木をくぐり抜けて行ったような記憶。

神社の前までやってきました。

m95-14-05 F5679 弁天神社

左側に見える道を歩いてきました。社務所らしいと書いたのが見えている家。この家の裏に先ほどの庚申塔がありました。真ん中の坂は、後日書きますが、「真明寺 不動堂」と「八雲神社」に上がって行く道です。真明寺自体は、写真の右の方にあるのですが、不動堂だけが離れた山の中腹にあるのです。石段が「貫井神社参道」です。つまり、昔は「貫井神社」=「貫井の弁天様」=「真明寺」という一体のものだったのでしょう。「八雲神社」も寺の鎮守だったのかも知れません。

神社は後回しにして、プールの痕跡を探します。

m95-14-06 F5682 プール跡

m95-14-09 F5682石段の脇に、石碑が立っていまして、その横、向かって左に竹筒から清水が出ています。向かって右には湧水が小池を作っています。黒いところです。少し明るくできるかな?駄目なようです。

m95-14-07 F5683

 

 

 

 

 

 

 

 

この石碑「貫井プールの碑」です。「大正十二年・・・」はしょって書きます。小金井村の青年会貫井支部の人々が、青少年の体育向上と精神鍛錬に役立てようと、近代的プールの建設を企画し、貫井神社と真明寺の社寺地を借用し、水源は弁天裏山の湧水を使用して、50m×16.5m、水深1.6mのプールを作りました。建設費は勤労奉仕と近隣市町村からの篤志寄附金です。寄附金総額1300円・・・物価換算だと現在価格500万円位でしょうね。大正12年の東京帝国大学卒業の技術者が、大阪市役所に就職したときに初任給が七十五円。・・・どうしてそんなことが分かる? NHKの朝ドラで「ごちそうさん」というのが有りましたね。あれでそう言っていました。ちなみに最近の大卒者の初任給は約20万円。ストレートに換算すると1300円は374万円かな? 但し当時は大卒者の人数は現在の1/10以下ですから、相場的にはだいぶ違うでしょうけれど。いずれにせよ、勤労奉仕の価値が大きいと思います)。

このプール、昭和50年まで使われていましたが、経営が出来なくなって、ついに消え去りました。この顕彰碑は昭和52年に作られたようです。それで、プールがあった場所なのですが・・・

m95-14-08 F6136

どうもこの駐車場に位置のようです。水泳プールがモータープールに進化したらしい。

木瓜爺少年が遊びに来たのは、家の近所の少年達に誘われたのですが、二回くらいしか来ていません。にもかかわらず、強烈に印象に残っているのは、5才年下の妹がおぼれかけたからでしょう。木瓜爺自身が小学校の5,6年生の頃ですから、妹は小学校に上がるか上がらないかです。当時木瓜爺の身長は120cm位か? プールの深さより小さいチビだったのです。泳ぎもろくに出来なくて、小学校のプールを横に泳ぎ切れるかどうか分からない状態。プールの縁につかまってバタ足の練習をしている程度でした。その目の前で、突然妹が姿を消してしまって・・みると、水の上に小さな手がもがいていたのです。慌てましたね。必死に手を伸ばして、それを掴みひっぱり上げました。今と違って、プールには監視員もなにもいませんでした。そんなことが起きたので、その後は行かなくなったようです。

m95-14-11 F5749

駐車場は西側は「東経大」が使っているようです。50mですから、この辺までプールだったのかな。それでプールの水源なのですが、見に行った水源は、どうも貫井神社の神殿の横にあるこの水源だったようです。

m95-14-10 F5713

ただし、当時のものとは、形が違っているらしく、全く記憶のイメージと合いません。裏山自体が変わってしまっており、水量も少なくなっています。「この水のめません」になっていました。

m95-14-12 F5684

プールのことが分かったので、神社の方にお参りすることして、石段を上がります。左の道の方に、「石橋供養碑」がありました。どんんな石橋があったのかなあ・・

鳥居の手前が、少し空き地にしてあって、ベンチと灰皿が用意されていました。鳥居から中は「禁煙」表示されています。

ちょっとベンチで一服です。

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2015/02/24: 国分寺から小金井へ;木瓜爺撮歩95-14 貫井プール跡 (No.2240) への2件のフィードバック

  1. taj1325 より:

    貫井の湧水プール、澄んだ水が冷たく、苔が所々に付いていたとすぐ思いだしました。高校時代3年間お世話になりました。60年前の記憶が蘇ります。

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