2015/03/25: 麻布を歩く;木瓜爺撮歩94-21 (麻布台)西久保八幡神社〔1〕  (No.2269)

『号外挿入です。 3/24 靖国神社にある気象庁指定の「東京のソメイヨシノ標準木」を見て来ました。3/23に開花宣言されたばかりです。木は神社の神楽殿の前にあります。

HS3636 標準桜

HS3641 標準桜HS3637 標準桜右の方にある立て札が、標準木である表示。そして、5りん以上咲いている証拠写真を並べておきます。 東京は、桜のシーズンに入りました。』

では、麻布を歩くに戻ります。

飯倉交差点に戻って、桜田通りを北に向かいます。脇道に寺っぽい大きな黒いお堂が見m94-21-01 F3190霊友会えています。 あれは、「霊友会本部」の「釈迦殿」と呼ばれる建物です。「霊友会」というのは、「法華経」の「菩薩行」を重んじてはじめられた宗教団体で、400万人の信者が支えていると言われています。この「霊友会」から分離して出来たのが、「立正佼成会」ですから、凄いところです。日蓮正宗から独立した「創価学会」を加えた3つの宗教団体は、日本三大宗教団体だそうです。すべて「法華経」が原点・・言い換えると「南無妙法蓮華教」と唱えた「日蓮」さんが大元になります。

しばらく進むと、八幡様がありました。「西久保八幡神社」と呼ばれているようです。山があって、その上に神社が乗っています。

m94-21-02 F3192八幡神社

この神社の裏側斜面に「貝塚」があったようです。境内にその説明板がありました。

m94-21-10 F3204 西久保八幡神社

貝塚の住所は「虎ノ門」になっていますね。

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石段を上ろうとして、変な場所に赤い文字の「氏子信者」石碑が立っているのを見つけました。意味が分からなかったのですが、上まで行ってやっと察しがつきました。この「手すり」を「氏子信者」が奉納したのです。

 

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鳥居の手前に1対の狛犬があるのですが、これが大きくて、木瓜爺には頭部が見えません。頭が禿げているかどうか知りたい(?)のですが、見られないのです。

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ご覧のように、口しか見えないのです。ひょっとすると、これは角のある高麗犬だったのかも知れない、と思ったのですが、遂に分かりませんでした。脚立が欲しかった・・インターネットの画像検索で「西久保八幡神社の狛犬」を検索して見ましたが、高いアングルからの写真は0。「どうして、空ばかり見ているの?」と狛犬に尋ねると、「70年前、東京は連日連夜、空襲に悩まされただろ。われわれも武神八幡様の守護だから、空を警戒していたのだ・・そしたら、こうなってしまった。」

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境内は広いです。後で紹介しますが、この神社のホームページによると、江戸時代には、相撲の興行なども行われたようです。

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これは、手水舎。この近くに冒頭に載せた貝塚の説明板が立っていました。

そして、もう一対、狛犬があります。今度は、普通目線の狛犬でしたが、二つとも「阿」! 二つとも「子連れ」! 不思議な組み合わせで出来て居ます。上げている足が右と左の違い。上げた足の下に子獅子が置かれています。じっくり眺めてください。

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「三番組」・・これも「火消し」に関係があります。明治14年になってから出来た、東京の消防隊です。三番組というのは「赤坂・青山」の担当だったと思います。

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いよいよ、社殿です。大きな祈祷殿があり、後部に神殿があるようです。ちょっと横からみると分かるのです。社殿の額は「八幡宮」です。

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では、お参りして・・・ホームページから、祭神などをうつしておきます。

『祭神:品陀和気命(ホンダワケノミコト) 息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)
帯中日子命(オキナカツヒコノミコト)  仲哀天皇と神功皇后という夫婦の大神様とその御子応神天皇がお祀りされております。』 子供の応神天皇が最上位なのです。

由来についても詳しく書かれていました。・・・この木瓜爺ブログ、記録されたデーターによると、リンクをクリックされる方が殆どありません。それで、ある程度、原典を写させて頂く事にしています。

『寛弘年中(1004~12)、源頼信(多田満仲三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。太田道灌の江戸城築城に際し(築城は長禄元年・1457)、現在地に遷された。徳川秀忠(徳川二代将軍)正室の崇源院(諱は「江(ごう)」・「お江」・浅井長政とお市の方の三女・家光の生母)は、慶長5年(1600)、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残しており、家光公御代寛永11年(1634)、社殿が造営された。』 「お江の方」が「関ヶ原の戦いに勝ったら、社殿を新しくします」と、祈ったわけですねえ・・

『元和5年(1619)には時の鐘が建てられたが、寛文10年(1670)に割れてしまい、現存はしていない。享保8年(1723)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、文化8年(1811)にも火災に遭い、文政元年(1818)に再建されている。この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。また、その間にあっても明和3年(1770)・文化12年(1815)・文化13年(1816)には境内で大相撲が行われ、落語や講談で有名な阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)も相撲を取っている。』 やはり、江戸は火事が多かったのですね。「阿武松緑之助」というのは、能登の生まれで、6代目の横綱です。相撲取りになろうと弟子入りしたのですが、余りに大食らいなので破門され、後にその親方と土俵で対決するなんて話を、講談か落語で聞いたような・・・

『明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺であったが、江戸八所八幡の一つに数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わった。』 上野の東叡山の末寺で「八幡山普門院」と呼ばれていたのですね。そうだとすれば、「八幡大菩薩」が祀られていたのではないのかな? この記述ちょっと疑問? 別當寺として「八幡山普門院」があったのではないでしょうか?そう読む方が、木瓜爺としては受け取りやすいです。

『昭和15年、皇紀2600年を記念して、境内を整備し、玉垣・神楽殿・御輿庫が新築された。祭礼には門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いた。市兵衛町(六本木一丁目あたり)の偏奇館主人荷風散人(永井荷風)は、その日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」など記す。
昭和20年3月、戦災により、社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、5月神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。終戦当日は、焼野原に建つトタン葺の仮社殿で大祭式を終え、数名の参列者とともに、玉音に接するありさまであった。氏子の町々の復興とともに昭和28年8月社殿を総桧木により復興、同29年町内御輿庫再建、同時に手水舎を時の氏子総代山田信治郎氏奉納、同37年末社稲荷社・人麻呂社を復興。同40年国道一号線拡幅工事に伴い、鳥居・石灯籠および熊谷橋の移築。同51年8月社務所を木造瓦葺で新築した。
平成23年1月、御鎮座一千年奉祝事業の嚆矢として男坂玉垣を修復、同8月奉祝記念大祭斎行、同12月奉祝記念碑を建立した。  御神徳は国家鎮守・勝運守護・開運・厄除・交通安全・家内安全・社内安全・商売繁盛・安産・成長守護など多岐に亘ります。』

『境内末社: 稲荷社 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 人麿社 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ) 庚申社 猿田彦神(さるたひこのかみ)』

境内社については、明日に回します。

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