2015/03/29: 虎ノ門散歩;木瓜爺撮歩94-25 梅上山 光明寺 (No.2273)

直ぐ隣の「光明寺」に行きます。昨日も書きましたが、「専光寺」とは兄弟だったと思われる寺ですが、こちらは「浄土真宗 本願寺派」。

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m94-25-02 F3282 光明寺

江戸時代の遺跡的なものは、こちらが引き継いでいます。ホームページには、こう書かれていました。『光明寺はむかしから「梅のお寺」として知られてきました。徳川家康が光明寺の梅を喜んだ故事に因み、3代将軍・家光から「梅上山」の山号を贈られたことが、そのきっかけです。江戸時代、幕府への新年寺社献上の第一番は光明寺の梅とされていたそうです。』 表札に記された住職石上和敬さんは、住職ブログなども書かれています。武蔵野大学の教授でもあります。1963年生まれですから、働き盛り・・・

光明寺は、僧浄榮が建暦2年(1212)霞ヶ関付近に創建、慶長9年(1604)当地へ移転したといいます。住所は「港区虎ノ門3-25-1」

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本堂の建物は、近代的になっており、あまり味はありません。本堂は2階だそうです。奥の階段を上がっていった所のようです。境内には別のお堂が見えます。

「芝区誌」にはどう書かれていたかな? 『光明寺 神谷町十六番地。
西本願寺末派で、梅上山證誠院と號する。建暦二年霞ヶ關に創建し、常楽寺と稱して、天台宗であつたが、天文九年十月改宗して今の寺號に改め、慶長九年現在の地に移つた。開基は僧了營である。』、お堂の事は何も触れていませんね。

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では、目で確かめましょう。手前に「説明板」二つがありますが、あれはなんだろう?

m94-25-05 F3285 焼死者の墓

供養塔? 墓石?m94-25-06 F3286

わあ! 「明和の大火」だ。ウイキペディアでは、『明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄の配下によって明和9年(1772年)4月頃に捕縛され、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。』と書かれていました。この火事で、火に追われたm94-25-07 F3287人々が、この光明寺の山にも逃げてきたのですが、火に包まれ90人の焼死者がでたようです。下の方に、「焼死人之墓」と彫られていました。 お堂の方の説明は何もありません。多分「阿弥陀堂」でしょうが、元「天台宗」ですと、他の仏様ということも有ります。仏像がなにか分かると良いのですが・・・

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木瓜爺、少し霞んできた(?)眼をみひらいて、拝みます。「常楽」という額がかかっていますね。天台宗時代の寺名が「常楽寺」だと書いてありましたね。その名残か?

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さーて、どなたでしょうか・・・頭部は「肉髻 螺髪」右手は親指と人差し指で輪を作った「来迎印」左手がよく見えませんが・・多分「阿弥陀如来」でしょう。ホームページの方に手がかりはないかな? 有りました! 『常楽堂:歴代住職の遺骨や、納骨を希望された門徒(檀家)の方々の遺骨が納められています。「ほとけさまのもとで、みなさんと一緒にお会いしましょう」という願いから建立された永代納骨堂です。』 成る程、永代納骨堂だそうです。

m94-25-10 F3295理解出来ましたので、正面入口に向かいます。つまり横から入り込んだらしいのです。

正門には、円柱の表柱(?)がありました。

さて、次は? 地図では「俊朝寺」「摂取院」「天徳寺」と順に訪ねられるように見えるのですが、広い通りに出て、少し東に行き、左に入る形だな・・・広い通りには直ぐ出ました。この辺が「俊朝寺」の入口だなと思った場所から見た写真が次の写真なのですが・・・ 「エスカレーター」で上がった所に、寺らしいものが見えるのです。地図にはないよ? 横断歩道、赤信号です。

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