2015/04/25: 奥武蔵散歩;木瓜爺撮歩08-04 飯能・平壽山 廣渡寺(こうどじ) (No.2300)

八幡様と道をはさんで、広渡寺(こうどじ)の山門があります。

m08-04-01 F7233 廣渡寺

大谷石を積んだような門ですが「平壽山」「廣渡寺」の表札がついています。「曹洞宗」寺院だそうですが、本尊は「延命地蔵」。ちょっと珍しい組み合わせです。

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おそらく、昔の「地蔵堂」がベースになっているのでしょう。その血筋を大事にするためか、あちこちにお地蔵様が居られます。

門を入って真っ直ぐ進み、「地蔵堂」に突き当たって右折すると、本堂にでます。tajiさんが、寺の入口をさがして塀の外を回ったら1km程歩かされてしまった・・と、ブログで嘆いておられましたが、とにかく広い境内を有しています。

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境内の駐車場に入る道ですがまだ桜が咲いています。その横、庭の一部になりますが、ここも見事に咲いています。

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やっと、地蔵堂に来ました。

m08-04-06 F7239子安地蔵尊

本来は、この左手の方に「南門」があって、そこから入って、真っ直ぐ本堂に行く配置だったのかも知れません。

地蔵堂は、「子安地蔵」のようで、その脇に、古い地蔵塔の残骸のようなものがあり、六地蔵が並びます。

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ところで、地蔵菩薩がここの主人公であることについて、木瓜爺の考察をご披露させて下さい。これは学説でも研究結果でもありません。「虚空蔵菩薩を本尊とする玉寶寺」から、「地蔵菩薩を本尊とする廣渡寺」に歩いて来た、木瓜爺の空想です。・・・何かつながってしまった・・・というだけの事なのですが。「地蔵菩薩」についてウイキペディアを調べた時に、こういう事が書かれていました。『・・・・釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。・・・虚空蔵菩薩と地蔵菩薩が一対で安置される例は京都・広隆寺(講堂)などにあるが、一般的ではない。

突然、虚空蔵菩薩が現れたので、虚空蔵菩薩の方を見ました。すると『「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。』

これらの説明だけではよく分からないので説明を追加すると、「虚空蔵菩薩」と「地蔵菩薩」は、同時に信仰の対象となる位置にあったようです。というのは、「地蔵菩薩」は「大地の恵みの象徴」で、「虚空蔵菩薩」は「大空のもつ恵みの象徴」なのだそうです。であるから、古い時代にはワンセットにされていた。とすれば、「玉寶寺」と「廣渡寺」は、ワンセットの対になるお寺にした可能性があるわけです。いずれも、能仁寺の末寺ですから、こういう意図で作られたのかも知れません。

同じ頃作られた他の能仁寺末寺を回るのが楽しみになってきました。

m08-04-09 F7254六地蔵の前をすぎてちょっと先の右手に、手水舎がありました。これが面白いのです。青銅の何かが見えますね。これは「河童」なのです。

「地蔵」と「河童」何を思い出しますか? 木瓜爺、全然なにも思い出さなかったのですが、「カッパ地蔵」という言葉だけが浮かびました。なんだったけな? そんな昔話を聞いたような気がする・・ブログを書くにあたって、検索をかけてみました。
「まんが日本昔話」にありました。「かっぱ地蔵」・・『若松の高塔山にまつわるお話で、火野葦平の小説「石と釘」から翻案』された「カッパ封じ地蔵尊」です。他にもありました。信濃川の「親沢の河童地蔵」というお話。こちらは、ちょっと悲しいお話で、カッパ達が死んだ人間のために立ててくれた地蔵様です。記憶の断片は「かっぱ封じ地蔵」の方でしょう。でも、手水舎のカッパは信濃川のカッパのように愛らしい・・・

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m08-04-10 F7256河童

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手口を浄めて、本堂に向かいます。

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新編武蔵風土記稿では『広渡寺 平壽山と号す。曹洞宗、郡内飯能村能仁寺末、開山開基詳ならず。花渓正春を中興開山とす。永禄4年9月朔日寂す。其後能仁寺5世吉州伊豚再興す。元和2年9月26日化す。本尊枯花釈迦を安ず。慶安年中地蔵堂領3石の御朱印を賜ふと。按るにこの寺いづれ古刹と見ゆれど、記録の傳へなければさぐるにその由なし。
地蔵堂。 地蔵長1尺1寸5分、木の坐像にて運慶の作と云。外に愛染を置。長7寸5分木の坐像にて、これも運慶の作なりと云。
古墓 何人の墓所なるや詳ならず。建武5年9月3日禅覚敬白と、刻する板碑あり 』

m08-04-14 F7263創建は分からないけれども、建武(1334-1337)頃にはもう出来て居たということでしょう。ちなみに、建武5年というのは、足利尊氏が将軍になったときです。この時、北朝側は「暦応」、何朝側は「延元」という年号をつかっています。北朝としても8/28に「暦応」に改元していますので、現在の年表では建武5年9月ということはあり得ない日・・・面白いですねえ・・・

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慶安2(1649)年に、寺から寺社奉行に提出した文書には「永和2(1376)年開基」と記されてようです。さきほどの板碑はこれよりも古いことになります。

寺の記録が焼けてしまった戦のことをちょっと書きます。明治維新の「戊辰戦争」に含まれる、「飯能戦争」というのがあります。これは、たった半日で終わった戦争ですが、飯能の町が受けた被害は甚大でした。「徳川幕府の残党」達が、飯能「能仁寺」とその末寺に立て籠もったのです。「能仁寺」「廣渡寺」「玉寶寺」「智観寺」「心応寺」「観音寺」「秀常寺」・・・7つの寺と言われていますからこんなものでしょう。このうち「砦」になるのは、「能仁寺の裏山・・羅漢山砦・・(現在の天覧山)」だけでしょう。あとは宿舎m08-04-16 F7266の役にしかたたない平地のお寺だと思います。大砲を持った官軍に抗するはずもなく、粉砕されます。そのそも、何故飯能に集結したかというと、山を越えて秩父などに逃げやすいから・・なのでして、おかげで、飯能の市街は丸焼けにされてしまったのでした。

これは、多分共同墓、永代供養墓でしょう。まだ、あまり入っていないようでした(側面に戒名などのネームプレートが掛けられていました)。

では、次に参ります。天覧山に行く前に、もう一つ「出世稲荷」というのがあるらしい。それを探します。

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本堂にもう一度敬礼!  境内には、こんな飾り物「双体道祖神」もおかれています。

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