2015/06/06: 続・ときがわ散歩;木瓜爺撮歩88-15 嵐山町・威徳山 斑溪寺 (No.2341)

鎌形八幡神社の石段を再び下ればよかったのかも知れませんが、ご夫婦とおぼしき二人ずれの方が、神社の横をぬけて、裏側の道路に出る姿を見ていたものですから、ついその方向に足を運んでしまいました。

道路に出て、西に向かい、次の辻で左に入ろうとしますと、立っていた若い人が「今工事中でここ通れません」と言います。ここを曲がっておれば、地図で「木曾義仲産湯の清水」と書かれた場所に行ったようです。あとから考えるとアンラッキーでした。「斑溪寺というお寺に行きたい」と尋ねると、暫く考えて「ああ、赤い橋の近くですねえ(注:この赤い橋が斑溪寺橋でした)、そうすると、このまま進んで、ちょっと広い道を左に入ってください」という返事です。

そのアドバイスに従って進むと、左に入る細い道が一本あり、二本目が広い道でした。

m88-15-00 F5456 斑溪寺

成る程、遠くに寺の鐘楼の屋根と、山門らしいものが見えました。

進んで行くと、お店の看板。m88-15-01 F5457

「鎌形めんこ」? 「めんこ」というのは、「うどん」のことらしいです。時計をみると、11:28。ちょっとお腹が空き始めました。そう言えば、膝の痛みは感じなくなっています。油が回ってくれたのか?

m88-15-02 F5459斑溪寺

山門の前まで行って見ると、左側から細い道が山門の正面に来ていました。きっと、先ほど通り過ぎた細い方の道をはいってくると、ここに来るのでしょう。そう思いながら山門を入ろうとすると、後ろで「寄ってけ」・・お地蔵様が居られるのかと、細道の方に入ってみました。m88-15-04 F5463なるほど、入口に、仁王様ならぬ、観音様と地蔵様が立っておられました。お地蔵様の方は頭部が丸石に変わっています。口がないから呼んで下さったのは、観音様のようですが・・床屋さんから出てきたような・・白いエプロン・・何か持っておられます。失礼してエプロンの下を見せて頂きました。

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これは、珍しい持ち物です。「五輪塔」と呼ばれる供養塔です。これを見せるために呼んで下さったのでしょう。

エプロンを元のようにして、山門前に戻ります。

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m88-15-09 F5472向かって右橋の石碑は、「木曾義仲誕生の地」。お地蔵様がおられて、山門の左に見えるのは「禁葷酒」。お地蔵様は、かなり摩耗しています。m88-15-10 F5474

山門の額と本堂の額、うまく1枚に収まりました。「威徳山 斑溪寺」です。このお寺をとりあげたブログや観光案内は沢山ありますから、木瓜爺がごたごた書く必要はないようですが・・・でも、変なことを見つける木瓜爺ですから・・ 例えばなのですが、いろいろな情報をみて本尊が何かをしらべたのですが、書かれていないのです。「曹洞宗」のお寺ですから、何も書かれていなければ「釈迦如来」なのですが・・・まず、境内掲示から見ましょう。

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梵鐘に「木曾義仲 長男 清水冠者源義高 阿母 威徳院殿斑溪妙虎大姉 創建する所なり」と書かれているとあります。昔作られた梵鐘にこう書かれているなら、大変なものです。素性あきらかなり、と言うところです。 ここにも、本尊の説明はありませんね。 散々ネットサーフィンをしまして、たどり着いたのは、おなじみの「新編武蔵風土記稿」でした。『班溪寺(はんけいじ) 禅宗曹洞派、入間郡越生竜穏寺ノ末、威徳山ト号ス、本尊釈迦ヲ安セリ。開山ハ本寺十六世鶴峯聚孫寛永三年(かんえい)(1626)十二月十六日寂(じゃく)セリト。サレド当時ハ清水冠者義高母威徳院殿班溪妙虎大姉追福ノタメニ草創セリ。コハ旧キ人ナレバ鶴峯ハ中興ニテ開山ノ名ハ失ヒシナルベシ。』 本尊は「釈迦如来」。「妙虎大姉」が草創で、寛永3年(1626)に「鶴峯禅師」によって中興された、ということです。でも、ここには梵鐘のことは書かれていませんねえ?

この風土記稿の中にもう一つ発見がありました。『又義仲誕生(たんじょう)ノハジメ七個処ノ清水ヲ翠(くん)テ産湯(うぶゆ)ニ用ヒシト云フ。コノ七ヶ所ノ清泉今ハ大抵廃セリ』

義仲誕生の産湯清水は七ヶ所にあったというのです。そうすると、神社にあった湧き水口、より損ねた清水、さらに班溪寺の裏にあるという産湯清水、みな正しい?ということになりそうです。七ヶ所が現在は三ヶ所に減ったということでしょう。

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では、本堂に進んで、「ナムシャカムニブツ」でお参りします。問題の鐘楼を見に行きm88-15-13 F5480ましょう。おやあ? 触れますよ! 撞くと叱られるでしょうが、上に上がって写真を写しても良いようです。

先ほどの文言が彫られている鐘なのでしょうか?

m88-15-13 F5483 鐘銘

見つけました。ちょっと読みにくいですが、二行目「木曽義仲長男清水冠者義高為阿母威徳院殿斑溪妙虎大姉所創建也云々  享保四己亥年二月十五日鋳造・・・」うーん、確かに・・でも、変だぞ? なんで 云々なんだ? ちゃんと書かないのはなぜだ? 変だぞ? もう一度鐘の回りを回りました。

m88-15-14 F5485 製造日

後側に答を見つけてしまいました。左から二行目をよく見てください。「昭和四十三年二月三日立春」・・・レプリカだったのです。だから、「云々」なんて誤魔化したのだ。本来の「享保4年(1719)製」ではありません。この本来の鐘はどこに有るのか? もしかすると太平洋戦争の時、供出されて鋳つぶされたのかもしれませんね。

妙虎大姉は、俗名「山吹姫」という名前の義仲の妻の一人で、この寺に墓があります。義仲には「巴御前」という勇ましい妻がいますが、この「山吹姫」も武器を振り回せる勇ましい妻だったようです。この人は、義仲が木曽に逃れたときに頼った中原義長の兄の娘ということです。どういういきさつで、嵐山町に来たのかまでは、木瓜爺も知りません。連れていた一子、義高が長男ということですから、多分「山吹姫」が最初の妻でしょう。ここに隠れたけれど、執拗な頼朝の追求で、義高は斬られてしまったのでしょうね。

気を取り直して、「鎮守堂」という建物の方に行きます。「義仲顕彰碑」などというものも作られています。義仲の嵐山脱出後のお話が書かれているようです。彼も後白川法皇に操られた一人なのです。

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この鎮守堂なるもの、寺の鎮守神社という位置付けなのでしょうが、天満宮でした。

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丸い鏡(?)がおかれていますが、この後ろに、黒色の「菅原道真木像」が納められているようです。

道真は「怨霊」になったときに「威徳天満大自在天神」という名前を貰って祀られました。大自在天という呼び方の中に魔物とみた当時の感覚が出ていますね。この「威徳」が山号に使われたのではないかというのが通説になっているようです。

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参詣を終え、橋の方に行って見ました。腰を下ろす場所でもあれば、昼食にするつもりだったのですが、何も見あたりません。

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川原に下る道も近くには見あたらないし・・・この写真では分からないですが、この下流方向、川が60度くらいの鋭角で方向を変えています。真ん中の平らな部分に見える所を、右から左に水が折り返して流れているのです。

そうそう、新編武蔵風土記稿で気が付いたのですが、「鎌形」は、当時「釜形」と書かれたようです。上流側に目をむけると、カルガモが食事中。木瓜爺もお腹が空きました。

m88-15-19 F5503

次の「宗信寺」は、弁当を食べる場所としては期待薄ですが、行くだけ行きます。経験的には、弁当を食べる場所としては、神社の方が使いやすいですね。邪魔にならないところにちょこっと座れるからでしょうか・・

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