2015/06/23: 青梅散歩;木瓜爺撮歩64-12 藤橋城址・杣保神社跡 (No.2358)

錬成道場から藤橋の方に行く道を入って行った木瓜爺、この方面は何度も書いたような気がするなあ? と、少々悩んでおります。Choi-Boke爺ちゃんのブログ時代の撮歩64 は、確か「井戸のある町」というテーマで、野上の鳥井戸から東に歩きました。今回は北から南に歩いて行くことになります。木瓜爺ブログとしては、2014/05/21撮歩79-16で、この「藤橋城址」を取り上げています。つまり、同じ場所が重なってしまうことになります。見る場所は同じでも、見方は少し変わるでしょうから、とにかく歩いて書いてみよう・・・と、半分あきらめて? てくてく です。

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藤ノ木橋に差し掛かりました。霞川を渡ります。「新編武蔵風土記稿」には、「藤橋」の由来が書かれていました。『藤橋村 藤橋村は郡の北にあり鄕庄の唱を失う 古へ藤蔓を以て架セし橋有りしより村名起これりともいい又橋上より冨士山を望めばその近きさま数里を隔てさるが如しとて冨士橋ともいう』位置的には、おそらくこの藤ノ木橋よりも東の秩父街道(岩藏街道)の方でしょう。というのは、藤の木橋では、冨士山を遮る小山があるからです。大岳山方面はよく見えます。この左端ちょっと外れたあたりに冨士山は見えると思うのですが・・・

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「藤ノ木農道」という交差点です。このすぐ右側が「藤橋城址」になっています。風土記稿では、『古城蹟 東西凡そ20歩南北50歩余の地ていう。村の北の方にあり 往昔 平山越前守といふ者住居せしと云う その事跡をつまびらかにせす』・・・平山越前守の舘跡としています。

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現地にある説明板には、「武蔵名勝図会」の記述で説明しています。

『武蔵名勝図会』というのは、「新編武蔵風土記稿」よりもほんの少し前に、作られたもので、「江戸時代後期、多磨郡の名所・旧跡が挿絵入りで纏められた地誌が、『武蔵名勝図会』全12巻である。著者は八王子千人同心の出である植田孟縉で、文政6年(1823)、昌平黌に献上されている。」というもの。著者の植田孟縉は、「新編武蔵風土記稿」を作ったメンバーの主要な一員になっています。

m61-33-01 F5795 藤橋城址

m61-33-02 F5796このお地蔵様の所から入ります。

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中は公園になっていて、ベンチなどもおかれています。東屋も造られており、その横の方に、水道や簡易トイレなども設置されています。

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あじさいも咲き始めていました(6/4)。ここには、m61-33-06 F5807もう一つよっておく場所がありました。「杣保神社跡」です。「杣保」というのは、青梅の旧名として扱われることが多い名前です。

正確には、次ような意味なのです。「杣山とは木材の切り出し、植林の為の山を指して呼びます、奈良期武州杣山は国衛の杣山でその範囲は奥多摩地方から高麗郡、入間郡西部、比企郡西部更に飛地として秩父地方の金尾、黒谷が該当していました、多摩地方が国衛の杣山に指定された理由は杉、檜など建築に必要な巨樹の生息地でそれを切り出し輸送する河川である多摩川が付近を流れ巨樹同様に建築資材である石材(チャート岩)が採取可能であった為と考えられます。」という「杣山」を荘園化した場所を「杣保」と呼ぶようになったようです。つまり、あちこちに出来た一般名ですから、「武州杣保」にならないと「青梅の旧名」とは云えないのです。

ここで云う「杣保神社跡」は、現在「杣保葛神社」と呼ばれている神社が、最初ここに作られたらしいという意味です。最初の訪問は、Choi-Boke爺ちゃんのブログ 2月20日:青梅フォトウォーク第4回-4 杣保葛神社 をご覧下さい。二度目の訪問は、木瓜爺ブログの方で、2014/05/22にありますので、サイト内検索でご覧下さい。

なお、このブログに抜けていることを補足すると、新編武蔵風土記稿では「愛宕社」になっています。杣保神社=愛宕神社であったようです。引っ越してから後に、「牛頭天王社」が合祀され、「杣保葛(そまほかつら)神社」になったと見なされています。

『杣保葛神社  鎮座地 藤橋107
祭神 建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと)武甕槌神 (たけみかづちのかみ)
経津主神 (ふつぬしのかみ) 大直日神 (おおながひのかみ)』。

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城跡を南側に出て、東に歩いて見ました。旧家なのか平屋の立派な建物が見えて居ます。ぶつかって右に行き、広い路に出たので左折・・ジグザグ歩いて行くと小作駅に近づくだろう・・・と歩いて行くと、交番がありました。「今寺駐在所」だそうです。

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ここもお留守のようです。

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m61-33-10 F5815おやあ? 「一里塚のエノキ」だそうです。青梅の天然記念物の一つですね。

「青梅と川越を結ぶ川越街道の一里塚のエノキである。一里塚が全国的に整備されたのは徳川幕府以降のこと。そこには成長が早く樹勢が旺盛で風に強いエノキが多く植えられたが、道路の拡幅整備でほとんどが姿を消した。このエノキは交通の激しい今寺駐在所前交差点内にあり、都内に残る貴重な一里塚となっている。」と、解説されています。「新編武蔵風土記稿」に曰く『今寺村 青梅より藤橋村への通路なり』

一里ごとの塚にエノキを植えることにしたのは「大久保石見守長安」だそうです。秀忠将軍にお伺いを立てたとき、「松や杉は多いので、目印にはふさわしくないのですが?」というと、秀忠将軍が「余の木(ほかの木に)せよ」と云われたのを、長安が聞き違えて「エノキにせよとおっしゃった!」というお話が、「青梅を歩く本(青梅教育委員会編)」に書かれていました。エノキは高く伸びるので、目印にはマッチしていたでしょう。

今寺村には、よりたいお寺もありますが、今日は通過です。南に進路をとり、青梅街道を目指します。

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こういう道はひたすら歩くしかありませんね。だいぶ疲れてきました。山道の歩行より車道歩きは疲れます。退屈しのぎに、木瓜爺のバッグの中身を覗いて見ましょうか。滅m64-omake F8250多に使わないものも入っています。これは、折りたたみ傘とカメラ用のレインコート。HS30用のものです。梅雨の時期は常に必需品ですね。次の時計は腕にはめていますが、方位計と高度計がくっついたものです。そして、LEDのヘッドライト。ヘッドライトは、昔にくらべると良くなりましたね。コンパクトで軽いし、電池寿命もかなりあります。あとは、熊鈴のお守りですねえ。熊鈴は普段はザックの中で寝ています。最近は、里山でも猪などm64-omake F8251m64-omake F8252も出てくるので、外にぶら下げることもあります。このお守りは、子の権現の「足腰守」です。ほかに御嶽神社の「大口真神」の木札もぶら下がっています。これに先日お見せした「救急薬品の袋」などが、たいてい同行しています。大げさですが、山歩きの習慣がそのまま残っているのです。さすがに、スパッツは押し入れで留守番しております。

交差点です。「今寺東原」と書かれていますね。 m61-33-13 F5828

交差点名が分かると地図と照合して、現在位置の確認です。そろそろ、「御嶽神社」かな? そのようです。大鳥居を見つけました。

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