2015/06/25: 青梅散歩;木瓜爺撮歩64-14 金錫山東禅寺 薬師堂はどこに? (No.2360)

大井戸公園から、真っ直ぐ南に行くと、青梅街道に出ます。

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この交差点で右に曲がると、「鈴法寺跡」、左に曲がると「金錫山東禅寺」に行く事になります。右側を見ます。この交差点の名前は「御嶽神社入口」、バス停名は「天神前」だったか・・・

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ちょっと話題の寄り道をします。「鈴法寺」というのは、「虚無僧」の本拠「普化宗」のお寺だった場所です。「尺八」に関連した「普化宗の発生」というサイトを見ましたら、こう書かれていました。

『l.虚鐸伝記国字解等による伝説尺八の歴史に略述せる如く、覚心は末より帰朝に当たり、宝伏(鎮州人)憎恕(〃)国佐(斉州人)理正(幽州人)の四居士を伴い、紀州由良の鷲峰山西方寺(後の興国寺)に落ち着いた後普化禅を広めた。そのうち、宝伏は他の人と別れて山城国宇治の里に庵を構え(吸江庵)普化禅を広めたが、後にその門人先(キンセン後に金先派ともいう)活聡・法義の三名と東国行脚に出て下総国小金の庄にて人寂した。
斬先は、その地に一宇を建立して(金竜山一月寺)と名づけ、師の法統を継いだ。
活聡居士は、武州幸手藤袴村に「廓鈴山鈴法寺」を建立した。
法義は、現在の高崎市に、金剛山静凌院慈常寺を建立した(慈常寺は根笹派の祖)なお、一月寺・鈴法寺は共に普化宗総本山・全国崩頭(フレカシラ)となる。』

ここに出てきた「武州幸手藤袴村」というのが、青梅新町だとは思えませんが、寺の名前としてはよく似ています。「新編武蔵風土記稿」によると、『鈴法寺 境内除地五段六畝二十九歩 普化宗諸流の觸頭なり 廓嶺山と号す 本堂三間半に三間 本尊弥陀を安す 長一尺余の木像なり 客殿は三間半に四間 開山 養風 是も慶長十九年 吉野織部起立という   薬師堂 九尺四方境内にあり』

吉野織部が新田開発の時、作った寺の一つですね。織部は、養風とは旧知の間柄で、葦草村鈴法寺の住職をしていた養風が新天地を求めていたので、連れてきたという話を書きましたかねえ? 本人忘れております。加えて、全国を歩き回る虚無僧から、いろいろな情報を得ることを考えたのでしょう。

m64-14-003 F6024鈴法寺跡

現在は、小公園になっていて、歴代住職の墓だけが並んでいます。なぜこんな事をくどくどかたかというと、鈴法寺にあった「薬師堂」が、「東禅寺」に移築されたということを書いておられるブログにお目にかかりました。「青梅資料館」にも、そう書かれています。ただ、木瓜爺としては、「東禅寺」には元々「薬師堂」があった筈だし、何故なのかよく分かりません。

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左折して進み、新町派出所です。ここには警官の姿がありました。この隣が、「東禅寺」です。

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こちらも、「新編武蔵風土記稿」に名前のあるお寺です。薬師堂があったことが書かれています。『東禅寺 境内除地一町六段七畝二十八歩 禅宗臨済派 鎌倉建長寺末 金錫山と号す 本堂九間半に五間半 南向 本尊聖観音は坐像の鉄仏なり 長一尺余 弘法の作と云 開山秋巌 開基は吉野織部 共に卒年を伝えされとこの寺の草創せしは慶長十九年なるよしにて云 表門 四趾の造りなり 別に又通用の門あり 鐘楼 八尺四方 鐘は近来の鋳造なり 薬師堂 二間余四方木堂なり 南に當り 路を隔たりここも除地の内なり 長一尺余の木像を安す 傍に庵一宇あり 留守の僧これに居る 山王祠 小社是又除地の内にあり』

かなり大きな規模のお寺だったことが分かりますね。現在の青梅街道は、道巾が広くなっていますから、道を隔てたところにあった薬師堂は、当然引越はさせられたでしょう。それにしても、より小さな鈴法寺の薬師堂を持ってくるというのは、どうもよく分かりません。それどころか、Choi-Boke爺ちゃんが歩いた、21- 木瓜爺撮歩64-9 金錫山東禅寺 (No.1656) の時も、薬師堂に触れていません。見えていないのです。狐につままれた感じ。

keidai2_yakusi「金錫山 東禅寺」のHPを見ますと、「薬師堂」として、この写真が掲載されています。隣に「戦没者慰霊碑」(これはありました)の写真が掲載されていますので、直ぐ近くだと思うのですが? 山門を入った所に、寺の改修の祈念碑がありますが、そには「昭和42年に 薬師堂再建」と記録されていました。この大きさ、九尺四方(鈴法寺)か2間四方(東禅寺)か? どちらに見えます? ただ、青梅街道拡張時に、東禅寺の観音堂が取り壊されるので、一回り小さい鈴法寺の薬師堂を、こちらの境内に移築したという流れだと納得はできますが・・

ともかくもう一度確かめます。

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六地蔵様と庚申塔は健在。子安地蔵も健在。築山の上にある小社、HPによると、「寺の鎮守」と説明されています。

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おそらく、新編武蔵風土記稿に出てきた「山王祠」の系統でしょう。そう考えるのが一番納得しやすいです。この築山、「高尾山」という名前だそうで、大きなヤマザクラがありますが、上の方で折れたようです。

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この四脚門が風土記稿に書かれた形でしょうか? 現在は中門になっています。

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m64-14-12 F5886そして本堂。本尊は「聖観音」ですが、HPによると、『「鈴法寺」の扁額と観音堂は、明治の廃宗の際に東禅寺に移建されました。』と書かれています。しかし、「薬師堂」を移したとは書かれていません。どうなっているの?? なんかちぐはぐです。HPが書き違えているのかなあ?

遠くから、観音様を拝みます。

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境内にあった石仏ですが、「薬師如来」と「大日如来」が併記されていました。この組み合わせは、何の供養なのでしょうか?  外にも色々あるのですが、見つからないのは「薬師堂」です。と、「あれえ?」・・・m64-14-15 F5893

これは、薬師様へのお願いの絵馬ですね。薬師様があることは確かなのだ・・・

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やっと見つけたのがこれです。材木はあまり見えないのですが、瓦や石が積まれています。どうもこれが、薬師堂のなれの果て? らしい・・・撤去されたのなら、こんなものを残さないでしょうから、改修工事なのでしょうか? よく分かりませんが、1年くらいしたらまた来てみましょうか・・・と、ここまで書いて、気が付いたことがあります。青梅街道の向こう側は見なかったなあ・・・まさかと思うのですが、そのうちまた調べてみます。

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最後の写真は、鐘楼を入れておきます。

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