2015/07/02: 町田街道南へ ;木瓜爺撮歩81-08 あじさい頃の浄泉寺 (No.2367)

お盆が近づいて来ました。木瓜爺の先祖の墓は、八王子館町の浄泉寺裏「泉の森霊園」にあります。元々ここに在ったわけではなく、6年前に大阪から引越してきました。引越前はというと、ろくに墓詣りに行かない状態が43年続きました。誤解をさける為に付言しますと、43年ほったらかしていたわけではありません。彼岸や盆の供養には、不参法要(行けないけれど、お布施を同封しますので、法要はお願いいたします。という形)は、欠かさずお願いしております。檀家の端くれであったわけです。ですから、墓の移転に関しても、全くノートラブル、快く送り出して頂けました。近くに墓を持って来たので、これからは、出来る限り掃除にも来るよ・・と、毎月二回は訪れています。それで、ブログにも浄泉寺がしばしば登場するのです。

m81-08-01 F8832今日は浄泉寺境内の「あじさい」を眺める所からはじまりますが、実は町田街道を南に歩くことにしています。Choi-Boke爺ちゃんブログで、2012/10/30 撮歩47-1 「梅元庵神社」というのを書いておりますが、この中で、道標石に「左 大戸かんのん道」とあり、前々から歩いてみたいと思っていました。人生残り少なくなってきたので、これを実行しようと云うわけです。

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「新編武蔵風土記稿」をみて、「梅元庵神社」のことも少し分かりました。『地蔵堂 小名古歌場 百姓甚右ヱ門がやしきの内にあり梅元庵と号す 本尊地蔵は弘法大師の作なり』 だ、そうです。

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浄泉寺は、風土記稿が書かれた時代には、もっと規模も大きかったようで、鐘楼、御霊社(現在の御霊神社)塔頭求宗院まで書かれています。『浄泉寺 小名四ッ谷の南の方 山丘によりてあり 禅宗曹洞派 入間郡久米村永源寺末 御霊山と号す 慶安の頃寺領十石の御朱印を賜う 開山は嶽應儀堅 天正十五年十月七日寂す 開基は近藤出羽守助實なりと云り 此の人は八王子の城主北条氏照が旗下にて野州榎本の城を預かりし士なり 過去帳の中に龍洞院一溪浄泉居士とあり 浄泉の二字を法諡とするは是出羽守が追諡なるへし なおかれがことは旧蹟の条にしるせり・・(中略)・・本尊釈迦木の坐像長一尺二寸はかり 本堂六間に七間 東向なり』

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「野州」というのは、「下野国」・・現在の「栃木県」と思えば良いでしょう。そこの「榎本城主」であった「近藤出羽守」の屋敷は、この近く(小名 四ッ谷)にあったようです。この人は八王子城の落城の際、二の丸付近で息子も共に討ち死にしたようです。  「御霊山 浄泉寺」は、神社の分離もあって、現在は「釈尊山 浄泉寺」となっています。「御霊神社」にも(明日)ちょっと寄りましょう。m81-08-06 F8845m81-08-05 F8844

 

本堂にお参りして、参道を帰ります。

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最後のお地蔵様、山門石柱の横にあります。地形を考えても、浄泉寺の昔の大門の位置がよく分からないのですが、このお地蔵様の後ろにある浄泉寺駐車場の奥あたりにあったのでしょうか? 御霊社は、もう少し先の「湯殿川」にそった北側にあります。それが風土記稿には、浄泉寺「境内の北なる川岸にあり」と書かれていました。

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