2015/07/07: 町田街道;木瓜爺撮歩97-13 恵日庵 十一面観音堂 (No.2372)

今宵は七夕ですね。せめて星くらい見たのですが、我が家では、晴れていても夜空が明るくて、夜間飛行の飛行機の明かり位しか見えません。

八雲神社下の広場で東を見ると、観音堂らしきものがあります。地図には何も書かれていなかったのですが、新編武蔵風土記稿には大戸観音堂のほかにもう一つ『観音堂 検m97-13-01 F6268地陸田五畝十歩 字泰良谷ニアリ 二間ニ三間 正観音ヲ安ス 百姓持』というのが有りました。これが、それに相当するのでしょうか? 街道に戻って、観音堂の正面あたりに行きますと、こうなりました。狭い階段で広場に上がります。入口の右手に、由来碑が建っています。これが、例の読みにくい黒石の碑でして・・・

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「武州上相原村字泰良谷の十一面観世音菩薩恵日庵は近隣の信仰厚くそこに 寛政文化文政の頃 沙念尼と浄心尼と言われた庵主さんが居られました。風間村在住の浄心尼が願主で近隣の方々の協力で人々の平和と幸福を希いそれぞれ追善功養のため地蔵菩薩様を建立されました。昭和十八年頃道路の拡張で移動され首がなくなっていたので、平成二年観音様のお開扉の年松日楽綱久が長年の念願で秋元石材の協力を得て首をつけさせていただきました。・・以下略」苦労して読んだら、観音様ではなく、お地蔵様のお話でした。その地蔵というのは、ああm97-14-08 F6277これらしい。六地蔵もあります。m97-13-06 F6274

「センター」のおられる六地蔵です。このセンターが珍しく「南無釈迦如来」と書かれています。お釈迦様も六地蔵軍団を直接指揮されるようになったらしいです。

先ほどの「泰良谷十一面観世音」という記述は、風土記稿の「泰良谷 正観音」と矛盾しています。どちらが正しいのやら・・でも、御開帳を見ている地元の方が「十一面」だとおっしゃるのですから十一面なのでしょう。

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「まぼろしの八王子三十三観音」という記事の中でも、「恵日庵十一面観世音」となっていました。

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実際のお堂の中は、こういう具合に「厨子」がしまっています。観音堂の脇にもう一つ石碑を見つけました。「記念碑」ですが、「柳泰良観音 恵日庵と号す 伝説によれば・南北朝時代の頃、三河の人松平廣綱一族恐れ有りとして平*日楽と改称す ×る者大慈悲の十一面観世音の尊像を奉じこの地に来て一宇を建立安置せるを創始とす。爾来二百二十有五年を経て、慶長元年三月新たに御堂を建立遷座す 松日楽一族はもとより遠近の観音*奉者年々増加・・」ちょっと読めきれませんねえ・・現物の方が読みやすかった。

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明治13年9月の台風で倒壊したお堂を大正4年に再建したと記されています。これで、元々は松日楽一族の持仏である十一面観音が祀られたという歴史は分かりました。それと、「恵日庵」というのは、尼僧の庵であったことが、最初の地蔵の説明で分かりましたね。地名の「泰良谷」も「平谷」の音からきたのかも知れませんねえ。

すっかりくたびれた木瓜爺、帰りたくなりました。

最寄りのバス停は「法政大学入口」。バスの時間までに「七面堂」というのを見てくるか・・と大学の施設に入って行ったのですが、またしても道が見えません。この山の上の筈だけど・・と上がって行くと寮みたいな建物が並んでいて、これは違うのかなあ・・と、雰囲気に撃退されてしまいました。

やってきたバスは、下校学生でほぼ満席。ザックを担いだ元気な(?)木瓜爺に、席を譲るような不心得な学生は一人もいない大学のようです。「優先席」というのは「早い者勝」という席だそうです。下見てスマホをぴこぴこしておりました。

いずれ、より損ねた所を再訪し、さらに相原駅に向かって歩きます。街道からあまり離れずに、6寺社くらいはありそうです。

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