2015/07/11: 木瓜爺撮歩99-08 長崎から湯布院へ 龍峩山仏山寺 (No.2376)

木瓜爺は、世界旅行はしていないのですが、日本の47都道府県すべては回っておこうと思ったことがあります。この目標は、60才代で達成。ただ、仕事からみで歩いたところも多いので、観光的な場所ばかりではなかったようです。

昨日の続きで長崎からはじまりますが、長崎は数回寄っています。今日のネガは、1990/3/18の残りに、「長崎平和公園」の所から1991/12/6の分をつなぎます。後者は写している枚数からみて、仕事の前の立ち寄りだったようです。

m99-07-01 長崎055

「長崎の古地図」です。どこの資料館で写したものかはっきりしません。長崎市立博物館では、所蔵の長崎古地図のうち日文研が撮影したカラー画像221点についてディジタル化してデーターベースを作っているようです。そういうものの一枚でしょうと思ったら、これは「享和二年長崎古地図ポスター 」(人気商品)だそうです。

m99-07-02 長崎056

これはどこの駅かな? 駅の上をまたいでいるアーチの道路が面白くて写したのだろうと思いますが・・・多分長崎駅、向こう側に見える山が「稲佐山」でしょう。

そして、次に出てくるのが・・・「日本26聖人殉教」の碑です。

m99-07-03 長崎051

木瓜爺は、戦後すぐ、アメリカの占領下において、キリスト教会の「日曜学校」に誘われ、「新約聖書」は何度も読みましたが、ちょこっと見た「旧約聖書」のほうが面白いといった野次馬的感覚。えーと、日本史で教わったキリスト教伝来は、1549年だっけ? フランシスコ・ザビエル。でもこれ本当ではないのです。もっと古くて、遣唐使の往来に紛れて、中国経由のキリスト教が「景教徒」としてやってきているようです。天平8年(736年)の事のようです。「景教徒」というのは「ネストリウス派キリスト教徒」という人々だそうです。この時代に伝わった「世尊ナントカ(すみません、ど忘れしています)」という文書が、西大寺にあるそうですが、これが釈迦ではなくて、キリストが山の上でおこなった説教?だという話をどこかで読みました。

青森県三戸郡新郷村戸来にある「キリストの墓」は、竹内文書といわれる、神主の家柄につたわる不思議な古文書の記録から、昭和10年に「武内巨磨」という方が発見したという、はなはだ怪しいものなのですが、キリスト教の一種が天平時代に、仏教などと同じように伝来してきているなら、東北の片田舎にキリスト教に関わる遺跡があってもそう不思議ではなくなるのかも知れません。というのは、これから植民地にしようという土地に宣教師を送り込み、土人を手懐けるという手段はキリスト教徒の常用する方法ですから。ただし、戸来付近のキリスト教関連遺跡は、キリシタン禁止令以降に、仙台(伊達政宗の頃)に住みにくくなった信者達が散ったものかもしれません。きちんと時代考証をしたものではない伝説の世界にあるようです。

話を戻します。この「26人の殉教者」にいたる経過です。ザビエルは、イエスズ会の宣教師ですが、これも東南アジアの植民地化のための先乗り宣教師でした。面白いのは、ザビエル自身は「日本人は最も優秀で理性的な国民である」という報告をして、自分は中国に転進するのです。一筋縄に行かない日本人も、中国からの文明を容易に取り入れることから、中国経由のキリスト教普及を考えたのかもしれません。

「イエスズ会」についで、スペイン系の「フランシスコ会」、「ドミニュ会」といった様々なキリスト教会派がやってきます。九州の大名達が、続々とキリスト教を帰依し始めた時期です。豊臣秀吉は、最初は好意的だったのですが、迫り来る圧力を感じて、1587年「バテレン禁止令」を出します。この政令は、「布教は禁止。信仰は禁止しない」という中途半端な形でした。全部禁止すると、大名達も反抗するでしょうし、交易にも支障を生じるからでしょう。 ところが、こうした最中に、サン・フェリペ号というスペイン船が座礁するということが起こり、その積荷を、秀吉の部下である奉行が、国内法に従って押収してしまいます。それを不満とした船長や「フランシスコ会」が、国際法(?)に訴え、秀吉と争う形になってきます。かねがね「フランシスコ会」の宣伝活動に手を焼かされていた秀吉は石田三成に命じて、「フランシスコ会」にまつわる人々24人を捕縛し、鼻を削ぐというような残虐な処罰を与え、最後は長崎に送って処刑しました。この24人に、長崎に着いてから、殉教の意志で自ら加わった2名の26人が、この「西が丘」という場所で「磔の刑」となったのです。十字架に縛られて、両側から槍で串刺しにされる刑です。この話、裏側には「イエスズ会」と「フランシスコ会」の勢力争いも絡んでいたでしょう。

m99-07-03' 53

ご覧のように、童子も3人います。思わぬ長話になってしまいました。では、次のフィルムの方に移行します。1991年のものです。こちらは、「平和公園」からはじまっていました。

m99-07-04 長崎001

m99-07-05 長崎002

広島の「原爆ドーム」のような象徴物はありません。木瓜爺が最初に教わった爆心地は、半分山にかかったような位置でしたが、その後何度か調査が行われて、現在は平和公園の中に爆心地を示す記念碑が出来たようです。

これは、広島にもある千羽鶴をぶら下げた「祈祷所」ですね。   フィルムは、この後車窓風景が何枚か入っています。これは、「諫早駅」のようです。「島原温泉乗換」と書かれています。m99-07-06 諫早駅004

 

そして、其の後の写真が、どこで写したのか分からない・・湯布院の駅にあったギャラリーなのか、或いは湯布院の民芸村にでも入ったのか?

m99-07-07 湯布院010

m99-07-08 湯布院011

 

 

 

 

 

 

 

 

 

由布市の伝統芸能「神楽」のお面のようです。なかなか迫力有るお面で、写してしまったようです。あっ! ここは、「由布市湯布院町」なのです。文字の使い分けに気を付けないといけません。後で出てきますが、有名な山は「由布岳」です。

m99-07-09 湯布院013

夕暮れが近い時間のようです。これは、川霧でしょうか・・・

m99-07-10 湯布院014

川に近い旅館に荷物をおいて、散歩に出たようです。金鱗湖の方に足を向けていると思うのですが、いかにも古い民家ですね。m99-07-11 湯布院015金鱗湖の少し南に、「龍峩山仏山寺」というお寺があります。このお地蔵様に教わって、そこに向かったようです。

m99-07-12 龍莪山仏山寺016

 

 

 

 

 

 

 

 

鐘楼がありました。が・・これは、「鐘楼門」でした。正面からみると・・・m99-07-13 仏山寺017

 

どうも、カメラのレンズが割合長いようですね。45mmか50mmを使っている感じです。何を持って行ったのか?

m99-07-14

デジタルカメラで写していると、こんな具合になるようです。この時は、廃寺ではないかと思うくらいさびれた感じでしたが、どっこい生きているよと、ホームページも出来ていました。そこから、うつします。

『佛山寺の歴史:今より約一千年前の一条天皇の御代、性空上人、九州巡錫中霧島神社に参籠するに御神宣あり、その御つげによって由布岳の山腹にて誦経したらば、「具一切功徳慈眼視衆生」(観音経の一説)と鳴動する岩あり。その岩にて観音像を刻して祀ったのが始めと伝えられる。以来、全盛時には由布院内に末寺十数ヶ寺を有する由布の修行霊場の本拠地とされてきたが慶長元年の大地震により打撃を被ったため麓の地(現在の地)に伽藍を移し、新たに臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺院として再出発した。
性空上人の刻した由布霊山観世音菩薩は今も観音堂に安置され、秘仏として三十三年に一度ご開帳される。』

最初は、由布岳の山腹にあった寺、現在は「大分県由布市湯布院町川上1879」にあります。禅宗の臨済宗妙心寺派です。「性空(しょうくう)上人」というのは、天台宗の僧侶で、「慈恵大師(元三大師)良源」の弟子です。俗名「橘善行」お公家さんだった方。延喜10年(910年)京都の生まれですが、結構あちこち歩かれたようで、時折お目にかかる名前です。

m99-07-15 由布岳019

「由布岳」です。晴れていると良かったのに・・・この時は、「金鱗湖」の脇の温泉には入らなかったのかな? 宿をとっていたので、入らなかったかも知れませんね。m99-07-16 022

さて、あの汽車で帰ろう・・・明日は、どこに行こう?

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