2015/07/20: 羽村堰下の生活橋 〔1975〕 (No.2385)

木瓜爺のブログに始終名前の出てくる「堰下橋」というのは、普通の橋ではなくて、「川の横断歩道」なのです。自動車は通行出来ません。自転車もオートバイも、本来は歩行者の迷惑にならぬよう、「押して通れ」なのですが、守る人は皆無です。最近はサイクリングロードだと思って走る自転車乗りがやたらに増加して、困っています。

今日は、この堰下橋が誕生する前のお話です。ネガの整理をしていましたら、1975/08/03 に写したフィルムが見つかりました。せっかく出て来てくれたので、昔を偲びながら、現在の自分たちの生活を反省してみようと思います。

堰下橋を渡ると、下流側にこんな風景が見えます。

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遠くに見えて居る橋は「羽村大橋」と言います。この橋が出来たのは、1974年頃だったと思うのですが・・。この橋が、建設中だった時期にまでさかのぼります。多摩川の右岸に、コンクリートの柱が見えますね.アオサギの休憩所です。

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羽村大橋が出来る前、このコンクリートの上に「都道」があったのです。あきる野の比丘尼平から、比丘尼坂を下り、現在堤防になっているあたりから、川原に下って、現在あるグランドを突っ切り、この橋を渡る道がありました。渡り終わると、また川原の砂利の上を走って、玉川兄弟の像のある少し手前から坂道を上がって、奥多摩街道に出て行く、抜け道に使われていました。

1974年だったと思いますが、台風の最中に、この橋が流され通行中だった自動車が川にのまれ、死人が出ました。それで、この都道は、廃道化されてしまいます。こんなに高さがあるのに、流されるというのは納得出来ないかも知れません。2015/7/16の多摩川の状況をお目に掛けましょう。これは、小河内ダムが、台風に備えて、貯水量を減らしておくために放流しはじめ、羽村の堰でも、村山貯水池に送る水を減らすので、堰を外したのです。川幅一杯に水が広がっています。

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この状態で、下流を見ますと・・・DSCF7986

コンクリートの橋桁はもう30cm位しか残っていません。水没してしまうこともたまに見かけます。流れても不思議ではないのです。廃道になって困った人々がいます。この道をたよりに商売をしていた「魚観荘」という料理屋さんは、自費で車一台やっと通れる道を、この付近に造っていました。「玉川付」とういう字になるのですが、ここには、都営の「勤労者住宅」が作られていましたから、ここの住人も魚観荘の道を利用して居ました。

羽村大橋が完成しますと、魚観荘は、車のお客は羽村大橋経由で来ますので、もう心配はありません。魚観荘の橋建設は終了です。困るのは、「勤労者住宅」と其の横に作られた分譲住宅・・木瓜爺もこの分譲住宅を購入した一員です。車を利用する人はよいのですが、川向こうの学校に通う子供達や車に乗れないお母さん方は大変です。羽村大橋に出るまでに500m、橋が520m、車におびえながら歩くのです。やっぱり、「川を渡る橋がほしい」というのは、痛切な願いでした。しかし、国土省は川を越える構築物は許可してくれません。ついに、住民は「実力行使」に踏み切り、自分たちで、川に橋を造ってしまったのです。「生活のための橋」「生活橋」と呼びました。

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しかし、写真のような大水状態になると、簡単な木橋はあっという間に流されます。流されては作り、作っては流される・・・お見せするのは、その何度目かの工事の記録なのです。知恵を絞って、奥多摩湖にある「ドラム缶橋」からヒントを得た新型を作ることにしました。住民の中には、大工さんや鉄工の溶接などの職人さんもおられましたから、そういう方々の知恵と技を提供して貰いました。

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人手が揃う日曜日の朝です。実行委員長の方針説明がはじまっています。

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作業開始。動力はすべて人力。材料の一部は、対岸のほうにも運んでいます。

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ドラム缶は鎖や綱でつないでいます。鎖の端は、地中に埋めたコンクリートブロックに固定してあります。ただし、右岸だけが地中固定。左岸の方は、表面的な固定。大水の時は、左岸はフリーになり、右岸だけ留めた形で波に漂っている・・・という発想です。

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ドラム缶の上には木枠をつけ、板をのせてゆきます。

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だいぶ出来ました。

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これで、来週の通学は楽になるぞ・・・大水になるとき、つまり堰を払うときは警報がなりますがら、飛んでいって通行止めと同時に、水が押し寄せたらフリー状態になるようロックをゆるめます。・・・水が引いたら、残っている部分をたぐり寄せて、再建設です。

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生活橋-14 hashi020「ご苦労様でした。」

自分たちの生活環境を自分たちで作って行こう・・・この新しい町に住むことを決意した人々は、強かったです。ナントカシテクレという陳情と、こうした実力行使を併用しながら、少しずつ、古い町の人々も動かして、とうとう、堰下橋という歩道橋を市に造らせてしまいました。

この当時の中心メンバーの多くは、この世から転出されたり、より良い場所に引っ越しされたりして、数がへり、堰下橋が出来た後に入居された人の方が多くなっています。町の雰囲気も全く変わっています。今は、こうした共同作業をしようと思っても、応じてくださる参加者はごく少ないかもしれません。

町内会に入るのがイヤだといってすましておられる方も増えました。

木瓜爺もぼやくばかりでなく、昔を思い出して、町を自分たちで守るという気持ちを復活させましょうか・・・身体は動かないけど・・・

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