2015/07/28: 青梅街道狭山付近;木瓜爺撮歩98-36 龍華山 清浄光院 真福寺 (No.2393)

このお寺は、狭山でも最も古いお寺の一つでしょう。正しいことは分からないのですが、伝承としては、和銅3(710)年、行基の建立。 taji1325 さんの このお寺のブログを読ませて頂いたのが2010/12/7。 行基が、狭山に来ることが出来るたのかどうかと調べたChoi-Boke爺ちゃんのブログが、2011/1/4だったか? そういう意味で、懐かしいお寺になります。

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金網の向こうに、「観音堂」とおぼしき建物が見えて来ました。

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道は二つに分かれました。左は墓地の入口のようです。右は真福寺境内への道。そのコーナーに観音堂が立っています。

m98-36-03 F9061真福寺観音堂

向かって左の黒っぽい石碑は「百観音供養塔」西国・板東・秩父の観音霊場を全部回りましたという記念碑です。右の白い方は、「狭山観音第二十一番札所中藤百観音」となっていますが、ここに百も観音があるのでしょうか?

「新編武蔵風土記稿」では、真福寺の中にある「観音堂」として、こう書かれています。『観音堂 南ノ方ニアリ 三間四方 本尊弥陀立像ニテ二尺二寸許 左右ニ銅ノ百観音ヲ安ス』 成る程、本尊から云えば「阿弥陀堂」なのですが、脇に百観音を従えておられるのです。

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m98-36-06 F9069お堂には「観音」を意味する額は付いていませんね。でもこのお堂、随分凝った構造のようです。何だかすげーなあ・・・ えーと、拝むのは「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」両方唱えておけば良いのかな?

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真福寺の方に入って行きます。 山門と本堂の中間に出て行くようです。池があり、ハスの花が高い所に咲いていました。

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この塔は難しい字が書かれています。「命冥塔」でしょうか?

山門の方に行きましょう。

m98-36-09 F9079真福寺鐘楼門

「鐘楼門」のようです。立て札には、上にある鐘のことが書かれています。いや、撞けなくなったので、楼の上に入れただけか・・・「楼門」で良いのですね。

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山門を入って右の方に、本物の鐘楼がありました。

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また、「新編武蔵風土記稿」を登場させます。『真福寺 小名萩尾ニアリ 真言宗新義醍醐三宝院ノ末 龍華山清浄光院ト号ス 寺領二十石ノ御朱印ヲ賜ハレリ 客殿六間ニ十二間東向ニ立 本尊薬師 木ノ坐像 長八寸 開山瀧性法師 正徳三年十一月寂ス 山門2間ニ四間上ニ洪鐘ヲ掛 寛永十五年鋳シモノナリ 願主ハ市野孫左衛門尉貞継ト刻セリ 鐘ノワタリハ二尺五寸ナリ』

そして、境内、客殿の南には「八幡祠」があるとかかれ、東一町程のところに「天満宮」があるとなっています。この天満宮は、明日訪れる「入り天満宮」の事でしょう。m98-36-12 F9089

武蔵村山市の説明板ではこう書かれています。『龍華山清浄光院真福寺と号し、奈良時代和銅三年(七一〇)、行基によって創建され、その後、承久二年(一二二〇)に落雷によって焼失したと伝えられる故刹です。
正応三年(一二九〇)に、龍性法師(または瀧性法師)によって中興開山されました。
現在の本堂は、安永七年(一七七八)の建立で本尊は薬師如来、板戸の十六羅漢画や格天井花鳥画(市指定有形文化財)は、天保十年のころ青梅の人石川文松によって描かれたものです。江戸時代の建立とされる山門には、寛永十五年(一六三八)鋳造の梵鐘(市指定有形文化財)が収められています。観音堂も江戸時代の建立と伝えられ、狭山二十番札所で、江戸時代の中頃から奉納され始めた百体観音が安置されています』

さて、和銅3(710)年に、「行基」が狭山に来ることが出来たのかどうかなのですが、「行基年表」という資料と照合するとはなはだ疑問です。行基は、和銅三年には四十三歳だと思いますが、和銅三年頃は「平城京遷都という国家的事業が進行された年なのです。ちょっと抜き書きしてみます。「行基は、37歳の時、山を出て民間布教を始めたという。和銅3年(710)の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発した。行基はこれら逃亡民に救済の手をさしのべ、行基を敬う多くの者が集まり、行基の下で私度僧になった。 」という時代です。「役民」というのは、朝廷の命令によって、日本各地の国司から、強制的に都建設のために送り込まれた人達です。たしかに、行基の記録に残る事業は、和銅2(709)年から霊亀2(716)年がブランクになっており、地方巡業(?)していた可能性も否定はできないのですが、前述のように「役民の救済」をしているならば、それは都の近くでやっているはずです。さらに、「土木技術者」でもあった行基を都から離れた所まで旅にでることは、朝廷が許可しないだろう、ということから、Choi-Boke爺ちゃんも、「和銅三年行基創建」は否定的なブログを書いています。1月4日: 行基の不思議(3)

ただし、最近少し見方がかわってきました。『霊亀3年(717)4月23日、朝廷(元正天皇)より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。この時の詔には「いま小僧の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のこと(輪廻説に基づく因果応報の説)を説き、徒党を組んで、よくないことを構え、・・・・家々をめぐり、いい加減なことを説き・・・・人民を惑わしている。・・・・今後このようなことがあってはならない。このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ」とある。 』なのだそうです。つまり、710年代には、まだ行基集団の技術力を朝廷から認められていないのです。ということは、苦しむ「役民」を連れて、都を離れていったのかも知れないと考えはじめました。和銅三年はいささか早すぎるようですが、もう少し後ならば、「私度僧」であり「土木などの専門家」である弟子達を引き連れた「行基の弟子」達が、仏教の布教と、困った人々に仕事を与える意味も含めて、道普請や寺院建設を布施して回った可能性が高くなってくるでしょう。Choi-Boke爺ちゃんは、「行基は二人以上いた」という見方によって、行基作の仏像などは、行基工房が各地を回ったのだろうと想像しました。なお、国分寺の全国建設の際は、行基も朝廷に認められ、仏教政策の司令塔になっていますから、行基のサインがある命令書が来て、寺を作り、行基創立をいうことになったでしょう。

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m98-36-14 F9097これが、本堂です。お盆用らしい「卒塔婆」が沢山並べられていました。赤い幟が立っていますが「南無大師遍照金剛」です。現在の宗派は「真言宗豊山派」に属しています。「多摩八十八ヶ所霊場の42番」になっているようです。

薬師如来の御真言と、こちらの弘法大師の「南無大師遍照金剛」を唱えて、失礼します。

そうそう、本堂の天井の説明がありましたね。m98-36-15 F9100

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鐘楼のそばに、線彫りの観音様石碑がいくつか並んでいました。

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やっと正門に出て来ました。次は「入り天満宮」を見つけます。東1町(109mほど)でしたね。お地蔵様は、早く帰れとおっしゃったけれど・・もうチョイ粘りたい・・

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