2015/08/02: 町田街道・相原;木瓜爺撮歩97-15 放火された子ノ神社 (No.2398)

歩いている「相原」、「新編武蔵風土記稿」の時代は、上相原村・中相原村・下相原村という具合に、幾つもに分かれていました。明日「圓林寺」に到着する予定ですが、その辺りまでは「上相原村」です。上相原村には小名として19書かれていますが、その中に「子ノ神谷」「泰良谷」があります。つまり、「子ノ神」社は地名に使われるほど有名(?)だったようです。

m97-15-00 F6264風土記稿の記述は『子ノ神社 字子ノ神谷ニアリ 祭礼七月廿八日 村持 此邊ノ鎮守ナリ』となっています。前回は、入口が分からなかったのですが・・この「施設の入口」に見える所を入るのです。奥に見えている柵は「相原幼稚園」の柵なのですが、それに沿って左折して進みます。そうすると、前に石段が現れるのです。

m97-15-01 F6395

 

 

 

 

これは、知っていなければ行けませんねえ・・前回も、この石段は、遠くから目にしていたのですが、幼稚園の遊び場に行く道だと思ってしまいました。一番上にある鳥居まで識別出来なかった・・m97-15-02 F6397子ノ神社

 

 

 

鳥居をくぐると、参道が横に伸びています。が、その前に、足元にこれが並んでいました。

m97-15-03 F6398

傷んでいますので、定かではありませんが、お地蔵様群のようです。この神社は、「供養のための寺」に近い存在であったようです。

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m97-15-05 F6400左側には、木を使った遊び場が広がっています。お昼の時間なので、お参りのあと、ここでおむすびを食べましょう。参道を進むと、ちょっと石段があって、神社に到着しました。

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2間四方の土台(?)の隅に、石祠が置かれています。ちょっと勝手が違いますが、ははあ・・焼けたな・・おかげさまで、木瓜爺この程度は推察出来るようになりました。子ノ権現は山賊に焼き殺されそうになるのだ・・・土台みたいな部分が社殿だったのでしょう。

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黒い石碑が立っています。由来が書かれているでしょう。

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「御祭神 子の聖尊者(高野行人の霊)  由緒 天文5年(1536)7月26日

泰良谷に奉齋した高野行人が当地に於いて不慮の死を遂げたので、その霊を祀ったとの伝承がある。聖尊者の神像は天明3年(1783)7月常洲(茨城県)の仏師により造立し、内陣に安置してあったが、平成十年(1998)五月五日放火により拝殿共に焼失した。」

うーん、残念ですね。ここは「子ノ聖木像」を祀る正統派の「子の神社(権現)」だったのです。ただ、これは、誤解を生じる部分があるなあ・・何かというと「高野行人」という固有名詞にも見える名前なのです。ちょっと、外のDBの扱いを調べます。

「町田市史の要約」と書かれている記述『当社は天文5年(1536)7月28日の創立である。本殿内のお厨子の中に行者の像のご神像を安置してある。(平成10年の放火により焼失した)  祭神は高野行人の霊を祀るとあるが、大国主命の化身の子の聖尊者(ねのひじりそんじゃ)であるとしている。  例祭日は毎年4月の第3日曜日である。氏子は15戸。』 心配した通り、こんがらかっています。何を言っているのか良く分かりません。要約された方の理解不足か記述不足なのかもしれません。

「多摩の神社準備室」は、『子ノ神社  鎮座地 相原町4437  祭神 子ノ聖尊者 (ねのひじりそんしゃ)  例大祭 4月第三日曜

解説: 天文5年(1536)創建。この地で不慮の死をとげた高野行人を悼んで、 子ノ神谷の人々10戸ほどによって祀られた祠。 祭神はその高野行人の霊とも大国主命の化身の子ノ聖尊者ともいう。ご神体は天明3年(1783)作の尊者像であったが、 平成10年(1998)放火により拝殿とともに失われた。 例大祭はかつて9月11日であったが、
養蚕の繁忙期のため現在の様に改められた。』 あのー、先輩に申し訳けないのですが、子ノ神が出来るまでは、子ノ神谷になっていないと思うのですが、多分泰良谷の一部でしょう。これは単なるあげあしとり・・「猫」ちゃんは、神社名リストだけですね。

木瓜爺の見解を書きます。「高野行人」というのは、普通名詞だと思います。「高野聖」という言葉がありますね。泉鏡花の小説でよく知られた言葉ですが、これは特定の聖人を指しているのではなくて、「中世に高野山を本拠とした遊行者。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行った僧侶。」なのです。「高野行人」というのは、豊臣秀吉の時代に使われた言葉らしいのですが、全く同じ意味を持っているとのこと。「行者」を意味しています。

ちなみに、江戸時代に「高野行人」を名乗る大道芸があったようで、一本足の下駄を履いたような絵を見たことがあります。根気よくネット検索をすると出てくるかもしれません。

もとに戻って、泰良谷の人々が「行者の不慮の死」を悼んで、ここに「祠(神仏混交時代ですから 墓と考えてもよいかも知れません)」を祀った・・というのが、第一段階です。第二段階で、誰が言い出したのか、子の権現を勧請しようということになり、子ノ尊者の木像を造り祀った・・そのときに大国主命の化身などという曰くをくっつけた・・と云うことでしょう。なお、「不慮の死」というのは、何かの行き違いから、村人と争ったのかも知れませんね。単なる行者の行き倒れなら「塚」くらいですますでしょう。無理矢理、大国主命の化身というような表現を持ち込むのは、どうも怪しい・・もしかすると、子ノ聖が子ノ山山麓で山賊に襲われ放火されたのと同じようなことがあったのかも、・・・これは、余分な勘ぐりです。

m97-15-08 F6406子ノ聖は下記のように、実在したと思われる人間です。『子の聖は紀州和歌山の天野郷、阿字長者を母とする。阿字長者が六十歳となったある晩、夢の中に天竺の高貴な僧が現れた。そして「我、救世の願あり、願わくは汝が胎を借らん。」と告げて僧は阿字長者の口の中に入った。驚いて目覚めた阿字長者はやがて懐妊し、天長9壬子年(832)の子の月、子の日、子の刻に子ノ聖を生んだ。天竺の僧の生まれ変わりという事から幼名を救世若丸といい、7歳で出家して仏門に帰依すると子の聖または天野の聖と呼ばれて人々に敬われたという。』伝説として、天竺の僧の生まれ変わりですが、大国主命の化身ではありません。

おかれていた「子ノ聖宮」の石額です。焼けぼっくいまでおかれていました。氏子の無念さが伝わります。m97-15-10 F6411

さて、弁当にします。木瓜爺の撮り歩きの弁当は、コンビニ調達の「おむすび」か「サンドウィッチ」です。「カレーパン」などということもあります。比較的小食。下腹にくっついた脂肪をなんとか減らそうと、エネルギー供給を不足気味にしています。腰を下ろす場所が見つからないこともあるので、歩きながらでも食べられる弁当にしています。全く食べないと、シャリバテという現象がおそって来ますからね・・

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どこが良いかなあ・・・斜面部なので、一つしかないおむすびが転がるとこまる・・

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あそこにベンチがあります。腰を下ろして・・・しばし、休憩です。

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