2015/08/24: 町田街道;木瓜爺撮歩97-24 相模原市相原 八幡宮 (No.2420)

国境線である「境川」は、現在もほぼ「市境」になっています。つまり、「町田市」にいた木瓜爺は、今は「相模原市」におります。境川ぞいに、東に進むと、八幡様。祭りが近いので、提灯に誘導されています。

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この神社、「相原一番地」なのです。「相原起番地之碑」が立っています。これから勉m97-24-02 F7111強します。

『相原一番地の由来 平安末期 横山党の首領横山時重が粟飯原(あいはら)氏を名乗り、これが相原の名のおこりになったといわれます。その後、相原の人々はこの地に八幡宮を勧請して、そ境内を相原一番地と定めました』なお、現在の地番は「神奈川県相模原市緑区相原6-5-26  」となっています。

ちょっと補足しますと、「横山党」というのは、武蔵七党の一つ、多分あとで説明が出てくると思いますが、近江の豪族「小野氏」の末裔。祖先の有名人としては、「小野篁(おの たかむら)」がいます。
国司武蔵守として関東にやってきたのは、延長2(924)年、「小野牧」(牧場)の経営でしょう。八王子の南大沢あたりに「小野牧」はあったと云われています。ただし、これは伝説で後世造られた系図という見方が強いようです。真偽不明・・

「横山氏」の元祖(?)は、八王子にある「横山神社」に祀られる「横山義孝」・・・Choi-Boke爺ちゃんのブログ・・11- 木瓜爺撮歩54-17 横山神社と その他の境内社 (No.1496) ・・から、算えて、ひ孫に当たるのが「横山時重」です。その「横山時重」の屋敷があった場所なのです。屋敷跡に八幡様を勧請した、と理解しましょう。「粟飯原(あいはら)」というのですから、米だけの飯は食えない土地だったのでしょう。横山党は八王子に「横山庄」を築いていますが、領地拡大を相模国に向けて、侵略を試みています。ここは、その成果の最初の場所のようです。神奈川県の地図をみると、かなり南の方まで「相原」の名前がありますが、「粟飯原」の侵略の名残でしょう。なお、逆に、相模側から北上しようとする勢力「鎌倉党」等もありました。その一つは、後に横山党の傘下に入ったりしています(有名な人がいるのですが・・目下ど忘れ状態です)。追記:「愛甲三郎季隆:源頼家の弓の先生 ただし、記憶違いで、これは横山党の横山隆兼の三男、愛甲党を降参させてから、愛甲を名乗ったのでした。

m97-24-03 F7112相原八幡社

鳥居の額には「八幡宮」の文字が見えます。

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氏子総代会で造られた「由来書」があるのですが、いささか眉唾な部分もあるのは、身びいきのご愛敬。例えば、「小野妹子」の名がありますが、そこまでさかのぼる必要もないし、伝承のように「小野篁」で良いでしょう。「小野牧」の長官、「武蔵守」として、やってきた人の名前は、二説あるようです。「小野孝泰」と「小野諸興」。これが不思議な事に、「小野孝泰」の子供が「横山義孝」で、「小野諸興」が「横山義孝」になった・・・つまり親子関係です。 いろいろあらあな・・・

「武蔵守が下向の折、京の都から「石清水八幡」を迎え祀った」?・・武蔵守が、任地武蔵国を目前にして、相模国に神社を建てるわけがないでしょう?・・伝説では「延長2(924)年石清水八幡と八雲神社を勧請」となっているようですが、これもねえ、どうせなら八雲神社でなく「祇園社」にしておけばよいのに・・・

八王子市の歴史によると、勅使牧の別當が「諸興」に交代したのは、承平元(931)年だそうです。

難しい事は分かりませんが、常識的には、「横山時重」が屋敷を造ったときに、屋敷の守護神として、「石清水八幡宮」や「祇園社」を祀ったのがはじまりなのではないでしょうか? 「横山氏」は建暦3(1213)年「和田義盛の乱」で、義盛方になり、幕府軍(北条)に破れて滅びます。「神社」の方は、相原の人々が復興したということで、不都合はないと思うのですが・・念のため、相模原市図書館で紹介している「相模原の神社」を調べましたところ、「時重が横山庄から移ったときに、横山庄から移した」と書かれていました。これが、真相でしょう。

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遠くに社殿がみえます。向かって右側に「境内社」がありますね。

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「八幡宮」の額がかかっています。相模原市の資料を探して見ましょうか・・・ないですねえ? おなじみの「猫のあしあと」も、神社名と住所だけです。「神社人」は祭神が書かれています。『誉田別尊(ほんだわけのみこと) 宇迦視命(うかのみのみこと) 猿田彦命』・・これは当てになりません。何から写したのでしょうね?

ここまで書いた木瓜爺、国会図書館のデジタル・ライブラリーで「新編相模国風土記稿」を見つけ、「相洲高座郡相川村」を探しました。結果としては「高座郡上相原村」になっていました。そこで、見つけたことを追加します。『八幡社 例祭八月十五日 相殿二天王ヲ置 神体鏡。 例祭六月十一日。 花蔵院持 下同』・・「花蔵院」という寺は、「華蔵院」として、少し西の方に現存しています。まだ続きます。『山王社 稲荷社 外ノ御前社 祭神詳ナラス 以上四社 当村ト橋本村ノ入会ニアリ 又 花蔵院境内ノ御前社ヲ加ヘ総テ五社ヲ当村及橋本村二村ノ鎮守トス』 この当時、上相原村と橋本村は神社を共有していたのですね。この「新編相模国風土記稿」がつくられる少し前は、相原村に橋本も含まれて居たためでしょう。

先ほどの由来書に拠りましょう『誉田別尊と牛頭天王(素戔嗚尊)』、「新編相模国風土記稿」に合致しています。社殿の中で並べて有るようです。覆い殿のようなので、覗けたら覗きます。

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おお、立派な神殿が納められていました。なるほど、二社並んでいるようです。拝礼!

境内社、末社はなんと書かれていたっけ? 『外ノ御前社の祭神だった木花咲耶姫命、日枝神社』が合祀、「日枝神社」というのは、風土記稿の「山王社」の事でしょう。ここまでは本殿に合祀らしい。そして『稲m97-24-09 F7124荷神社』ですか・・鳥居があるのは「稲荷神社」ですね。狐がちょっと変わっています。

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こちらは普通ですが、もう一つのほうです。

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子狐を連れているのですが、一つは「だっこ!」ってねだっています。もう一つはおとなしくおっぱい飲んでいるのかな?

ほほえましくなる「使い狐」親子でした。m97-24-12 F7129

 

 

 

 

 

こちらの神殿は、石祠です。

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本殿の後ろの方に、「境川」の旧称「高座川」の石碑があると、書かれていたのを思いだして、覗きに行きました。

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境内の石灯籠、よく見ると年代物でした。「天保」年間の奉納品です。m97-24-15 F7145

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この「相模原市相原八幡宮」の南に、お寺を見つけました。ついでに寄ります。

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