2015/09/02: 青梅街道 芋窪;木瓜爺撮歩98-41 白部山 慶性院 醫王寺 (No.2429)

この芋窪には、「村山貯水池」の建設のために、引越させられた寺社が集まっている地域があります。それが今、木瓜爺が歩いている場所なのです。「慶性院」、「住吉神社」、「連花寺」いすれも「新編武蔵風土記稿」の時代には、「芋久保村 石川」にあったようです。ただ、「住吉神社」に関しては、もともとこの地にあった神社に合祀したのだという話もあり、調べる必要はありそうです。

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南北にのびる道路に突き当たって右折しました。大木のある場所が、「慶性院」でしょう。この道、割合古くからある道らしく、木瓜爺が写真を撮している場所の近くに、東大和市で最も古いと云われる「庚申塔」(延宝8年(1680年)建立)があったようです。全く気が付きませんでした。

m98-41-02 F9492慶性院

「慶性院」の入口です。ただ、正門は手前の道を入った南側にあり、本堂の正面になっていました。その写真を挿入します。山門額には「慶性院」と、左から書かれており、正面に本堂が見えて居ます。

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そんなこととは露知らず、木瓜爺は先ほどの入口におります。

m98-41-03 F9493石橋供養

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門前に立っていた「石橋供養碑」と右は「白都山慶性院」の石碑。

「石橋供養」というのは、石橋の掛け替えなどのときに、旧橋をねぎらい、真橋の安全を祈願する意味で建立されることが多いようです。ここでは、「空堀川の橋供養」でしょうが、字石川から運んできたものだと、「石川」という小川の橋かm98-41-05 F9495もしれません。

門柱の間を抜けると、直ぐに「説明板」がありました。

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「水天像」だそうです。「十二天」というのは、帝釈天・火天・焔摩天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・伊舎那天・梵天・地天・日天・月天の12天。「天部」の神様としては他に「弁財天」「吉祥天」「摩利支天」「大黒天」などもおられますが、基本的には「天上界にすむとされる仏教の守護神」達です。ただしこれは仏教側からの位置付けでしょう。元はインドの神様です。密教では十二天を曼荼羅に取り入れたものが多くあるそうです。「水天」は曼荼羅では「西」の担当。『古代インド神話に出てくる水を象徴した神ヴァルナが密教に取り入れられたもので、手には竜索や剣をとり、亀の背に乗る姿』と、木瓜爺のアンチョコには書かれています。

しかし、現物は少々違うようです。だいたい手が何本あるのでしょうか? 六本くらい有りそうですね。オマケに後ろに鳥居まで付いている。足元は丸い台に乗っているようにも見えますので、亀の背中なのかもしれません。 いつも不思議に思うのです。こういう石像を見て、誰が鑑定するのだろう? この水天の場合は、「水天」として建立した人が分かっているので、問題にならないわけですねえ。

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右手に少し戸が開いた建物がありました。感じとしては「庫裡」なのかな? 「寺務所」なのか「現在人間が居住している建物」のようです。 寄らずに本堂があると思われる方向に進みます。

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m98-41-10 F9510また同じような建物、こちらが「庫裡」だった建物かな? よく分かりません。

参道の横に「おつげの樹」という立て札。大きなツゲの木です。この木を拝むと、仏様の「お告げ」が聞こえるというのですが、無信心の木瓜爺には無理なようです。ブログ上では、お地蔵様や観音様の声は時々聞こえて居るようなのですがねえ?m98-41-11 F9511

やっと、右に本堂が見えました。最初に紹介した南門から入ると、正面にこれが有るのです。そして、左側に鐘楼や札所の阿弥陀堂なども見えます。断然分かりやすいです。m98-41-18 F9532

まず、本堂にお参りしましょう。

本尊は「不動明王」です。 石川にあったときの「新編武蔵風土記稿」を書きます。「醫王寺」として記載されています。この時は「薬師如来」が本尊でした。『醫王寺 除地五畝十八歩 字石川ニアリ 白部山慶性院ト号ス コレモ同寺(注:中藤村真福寺のことです)ノ末 開山承秀 慶長六年十一月二十八日寂セリ 本堂五間ニ八間南向 本尊薬師木ノ立像長一尺六寸 行基ノ作ヲ置リ 鐘楼ニ鐘ヲ掛タレトモ正徳年間ノ新鋳ナリコトニ考証トナスヘキコトナケレバ銘文ハトラス』

現在の状態は、久しぶりに「猫のあしあと」さんに伺いましょう。今までに記述していないことを探すと『多摩八十八ヶ所霊場41番、奥多摩新四国霊場78番です。 住所:東大和市芋窪6-1353   宗派:真言宗豊山派』

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もう一つ「東大和のさんぽ」という記事が良さそうです。『「慶性院」(芋窪6-1353)
芋窪にある慶性院・住吉神社・蓮華寺の三社は、多摩湖の湖底となる芋窪村石川の谷にあり、大正11年、ダム建設に伴い同じ芋窪のこの地に移転してきました。最初に訪ねた「慶性院」の本堂はとても大きく、それが400年前の慶長年間(関ヶ原の戦の頃)に建立されたとは驚きです。ご本尊は不動明王。慶性院の開山は慶長6年(1601)に入寂した承秀上人と伝えられます。寺名の慶性は慶長と同義語の転訛で、慶長年間の創建とする説があります。慶性院の山門は、西武球場に近い多摩湖を見下ろす丘陵に「慶性門」として建っています。墓地の入口辺りに、石川の谷から持ってこられたと思われる石造物が沢山並んでいます。三つの石像の真ん中の像に「石川谷」の彫刻が読み取れ、左は庚申供養塔です。』
ブログの冒頭に書いた貯水池との関連がはっきり書かれています。水天像についても解説されていて、それによると、「大正11年に、寺と一緒に引っ越してきたもの」だそうです。なお、ちょっと混乱しそうですが、「慶性門」は、ここではなく、引越前の場所に近い所にあるのです。

東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」の中に「湖底にあった史蹟と伝説」という頁がありました。この中で、慶性院について書かれています。かなり詳しいので、知らなかった点だけ拾って書きます。『慶性というのは慶長と同義語で慶長年間の開山を表す。石川の谷では最も西に位置し、真福寺の隠居寺といわれた。本尊の不動明王は1986年の厨子新調の際、腹ごもりの小仏が94年ぶりに日の目を見た。不動立像は室町末期から江戸初期のものと検証された。石川にあった頃、西北の山に春日作と伝える薬師如来を安置する堂があった。』
つまり、引越直前にはすでに本尊不動明王、薬師堂に薬師如来という形になっていたわけです。さて、「薬師堂」はどうなったのか?

m98-41-16 F9522薬師堂

こちらの「薬師堂」におられるようです。ガラス越しに中を覗いてみたのですが、よく分かりませんでした。 薬師様にもお参りして、次は阿弥陀様の方に行きます。

m98-41-14-F9514_thumb.jpg向かって左が「弘法大師」右が「阿弥陀如来」です。このお寺、流石に「真言宗」寺院らしく、拝む仏様の「真言」が書かれていて、有難かったです。柱に札が付いているでしょう。あれに、真言が書かれていました。ただ、短期メモリーがすぐクリアーされてしまう木瓜爺、覚えたつもりで、手をあわせると、忘れて居る悲しさ・・キョロキョロキョロキョロでした。

さて鐘楼です。m98-41-15 F9518鐘楼

ここも、撞き方の注意事項が書かれていました。と言うことは、撞かしていただけるということでしょう。住宅密集まではいっていないのですね。

ちょっと墓地の入口を拝見しました。六地蔵がおられるのではないかと思ったのです。これは、永代供養墓です。

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「六地蔵塔」がありました。其の横は「大日如来」です。一番左は「庚申塔」です。大日の土台には「石川谷」の文字が見えますね。「享保」の年号も見えます。

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向かい側には、さらなる古仏。一つ一つ鑑賞したくなりますが、先が長いので、これくらいで退散しましょう。

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お地蔵様にも、ご挨拶して、寺の外に出たのですが、 また呼び戻されてしまいます。それは、明日のお楽しみに・・・

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