2015/09/09: 青梅街道(元)屋敷村;木瓜爺撮歩98-48 蔵敷太子堂跡と勝軍地蔵 (No.2436)

「新編武蔵風土記稿」の「屋鋪村」には、神社として「熊野社」「辨天社」「御嶽社」、寺院として「太子堂」「地蔵堂」が書かれています。「熊野社」「辨天社」につm98-48-01 F9727いては確認出来たので、「太子堂」を確かめましょう。青梅街道を少し東に歩いたところで、左に分岐する道がありました。すぐにまた青梅街道に戻るようですから、おそらく道路整備前の旧道でしょう。m98-48-02 F9728

 

 

これを入ると直ぐに、お地蔵様が見えました。「新編武蔵風土記稿」の地蔵堂にあったお地蔵様かも知れません。『地蔵堂 東ノ村境ニアリ 三間ニ五間ノ堂ナリ 南向 ココニハ村民ノ墓アリ』 位置的には極めて近いと思いますが、そのものズバリではなさそうですね。『太子堂 是モ東ノ方ニアリ 堂ハ三間ニ五間 本尊ハ立像ニテ長一尺三寸ナルヨシヲイヘト秘仏ナリトテ見ルコトヲ許サズ』

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お地蔵様の前の広場の奥に「太子堂」代わりの建物があります。

m98-48-04 F9730太子堂

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読めると思うのですが、念のため説明板を書き写します。『東大和市史跡 蔵敷太子堂跡 所在 東大和市蔵敷1丁目36番地 指定昭和58年3月1日
この地は、江戸時代に太子堂が置かれた場所である。
「新編武蔵風土記稿」によれば、旧多摩郡山口領(現東大和市・武蔵村山市・東村山市一帯及び清瀬市・小平市・立川市・瑞穂町の一部)に存在した太子堂は、寺院に付属するものを除けば、蔵敷の一堂のみであった。
また明治五年(一八七二年)の学制発布に伴い、汎衆学舎と呼ばれる蔵敷村の学校が置かれた場所でもあり、その後も蔵敷村青年団活動の拠点となった。
現在の建造物は当時の面影はないが、厨子(空殿)が安置されており、太子堂が祀られている。』  秘仏であった太子像は行方不明でしょうか? 東大和市の文化財リストにはないようです。

では、お地蔵様の方をみます。あ、今になって気が付きました。やはり注意力散漫になっていましたねえ・・真ん中のお地蔵様は普通のお地蔵様ですが、右下に珍しいお地蔵様が居られたのです。むりやり、拡大します。

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馬に乗った「勝軍地蔵」です。ちゃんと気付いていれば、ちょっと花瓶を動かして写していたでしょうね。拡大した写真は、顔が見えるアングルで写していますから、少し変わった石仏だなあ・・位には意識していたようですが。

横にあった石碑は、羽黒山信仰の供養碑ですね。

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藏敷村の東端まで来ましたから、この日は、ここで終了です。高札所跡の前に戻って、「屋敷」バス停から、立川北口行きのバスで帰宅しました。 次の機会は、「奈良橋村」ですね。「八幡神社」があることは、バスの窓から見えたので分かっていますが、他に何があるでしょうか、「新編武蔵風土記稿」を入手してから、生き残り捜しという楽しみが増えました。

明日は甲州と武州の境に行きます。奥多摩湖の脇にある「太子堂」を探したいのです。

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