2015/10/05: 木瓜爺珍百山-15: 高尾山・【1】元 飯縄権現社 (No.2462)

「世界一の人気山・高尾山」を無視するわけにも行かないので、ちょっとひねって加える事にしました。木瓜爺、高尾山が嫌いなわけではありませんが、なにしろ人が多すぎて楽しめないのです。「きよたき」から「たかおさん」までケーブルカーで上がると、標高は472mですから、山頂までの標高差は 約130m。空いていて、マイペースで歩けるなら、まことに老人向けなのですが、あんなに混み合うと、高尾山に老人を連れて行くというのは、むちゃくちゃだと思ってしまいます。マイペースで歩けないと、全然駄目なのが、老人の足です。

と書いているのですが、実は木瓜爺、70歳を過ぎてから、登りのケーブルカーを使った事がないのです。リフトの方は1回試しに乗りましたが、それ以外はすべて二本足です。いや、ストックは使うから三本足ですね。

高尾山の登山道は何本もあります。一番多く使ったのは「稲荷山コース」。Choi-Boke爺ちゃんのブログ の高尾山は殆どがこのコースでしょう。いや、1回違うのがありました。2009/11/18のブログです。今回リプログしましょう。書く中身はだいぶ変わりますが。それは、「日影沢コース」です。高尾山登山  (No.326)

このほかに「表参道コース」「蛇滝コース」「琵琶滝コース」など、一応全部経験済みです。ただし「金毘羅山コース」は下山にしか使ったことがありません。

ところで、「新編武蔵風土記稿」が書かれた頃の高尾山はどこから登ったのでしょうか? 江戸前期は「駒木野の関所(小仏関跡として残っている)」を通過しないと高尾山の参詣できなかったそうですから、最短距離的には「蛇滝コース」に近い場所から登ったか、「日影沢コース」だったのではないでしょうか。「日影沢」というのは、小仏峠に行く道の途中にあるのです。「小仏川」の左岸をずっと進むと、甲州に行く「小仏越え」の道ですが、途中、日影沢で川を渡って、南に山を登ると「飯縄権現」つまり、医王山薬王院有喜寺の奧の院に着くのです。「蛇滝コース」の方は、修業する方々がお参りする道で、途中で「蛇滝」(山の北側)で身を清めることができます。この「蛇滝」古くは滑滝で、水を浴びることなど出来なかったらしいのですが、享和3(1803)年頃に、岩を削って、落差のある滝に改造したとのことです。なお、もう一つの山の南側の行場、琵琶滝も使われていたようで、文政6(1823)年鉄砲水がでて「行人堂」がながされ、12人が死んだという記録が残っているそうです。

今回のブログは、「新編武蔵風土記稿」を読みながら書き始めたのですが、「漢文」で引っかかりました。たまたま、「たましん地域文化財団」で作っている「多摩のあゆみ 第99号」が「特集 高尾山」である事を知り、幸いに、家内が持っておりましたので、記載されていた研究報告を参考にしています。

Choi-Boke爺ちゃんのブログは、『』で書いておきます。

『8:12高尾駅発の小仏行きバスです。平日は1時間に1本しかありません。乗客は高齢者(?)が殆どです。登山隊7人組が蛇滝口で下車し、私を含めて5人が日影で降りました。残りの10名くらいの登山隊は小仏まで行くのでしょう。』 小仏まで行く方は「景信山」に登る方々と、「小仏峠」に向う人々になります。

m100-15-01 日影沢f 001

『蛇滝コースは、きついけれど一気の登りですから、元気があれば早く上れます。日影沢は蛇滝よりは緩やかですが、それでも最初の尾根に上がるまでは、二汗くらいかきました。』

そこまでを、詳細に・・林道の標識です。これを見ながら進みます。まず、小仏川を渡ります。丁度ここに「日影沢」という支流が流れ込んでいまして、そのm100-15-02 f 002日影沢沿いに進むことになります。m100-15-03 f 003

 

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日影沢林道は、やがて二つに分岐します。一つは真っ直ぐ広い道で進み、ゲートの處で右の山に上がる登山道になりますが、これが「城山」の登山道です。もう一つの道が、高尾山登山道。m100-15-05 f005

 

分かれ道のところに、「日影沢キャンプ場」が出来て居ます。高尾山頂に行く人は「鷹尾山頂・大垂水峠方面」で左折です。

 

m100-15-07 f 008

m100-15-08 f 010「いろはの森学習の歩道」という名前もちょこちょこ出て来ますが、高尾山の遊歩道の一つでしょう。こんな和歌が添えられた樹木などがあります。

登り道は1時間以上続きます。あせらず、根気よくマイペースで。m100-15-09 f 011

 

沢をまたいで行く場所などもあったようです。m100-15-11 f 016一番きついところは、こんな階段でした。尾根に上がった所で、「4号路」と合流します。

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『90分程かかって4号路合流点に到達し、一息入れていますと、蛇滝組7人衆が4号路をやってきました。かなり速いペースで歩いているようです。彼等は休まず4号路を進んで行きました。あのペースだと、小仏城山から景信・陣馬を目指すのかも知れません。私は山頂までの積もりなので、のんびり歩きです。』

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ちょっとややこしい交差点です。二本の道がX状に交差するのです。道標をよく見て、道を選んで下さい。4号路を戻ると、「みやま橋」という吊り橋の處に行きます。山頂に向かう路が二本あり、一つは登山地図で避難路という名前がついています。これは、山頂下のトイレの脇に出る路。もう一つは「尾根筋」を通る路で、途中1号路と合流します。高尾山のような山でも、地図なしで道標だけ頼りですと、かなり悩みます。もっとも、人の流れにくっついて行くという方法はありますが・・・

Choi-Boke爺ちゃんは、そのまま、一号路と合流して、山頂に向かっていますが、トイレを済ませておきたいからでしょう。一号路に入った時、左に行くと、奧の院なのです。とりあえず、Choi-Boke爺ちゃんに付き合います。

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『それでも、10:15には山頂に着きました。早いけれど、お腹が空いたので昼食。ここで、ファインピクスをしまって、D300を取り出し(他の荷物を軽くすれば、D300を担いで行けます)山頂付近の紅葉をちょっと写し、11:00には下山にかかりました。』

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「新編武蔵風土記稿」の高尾山をちょっと読んで見ましょうか。

『高尾山 (上椚田)村の西南にあり 頗る高山にして周国に名たかき所なり 登り一里余 相伝ふ当山は聖武天皇の御宇天平十六年 行基菩薩の開関にして、薬師の古遺場なりと云 その由歴は別當薬王院の条にみえたり・・・』

行基が最初にここに草庵を作ったと言われるのが、天平十六(744)年、手作りの薬師如来を祀ったのがはじまりだと云われています。これは、Choi-Boke爺ちゃんの「行基の不思議」の中でしらべたことと、照合してみましょう。「行基の不思議(5)」(2011/01/06) に書いていますが、744年というのは「座間」の「星ヶ谷観音堂」と同じ時期なのです。行基はすでに77歳になっています。常識的にはもう東国までやってくるとは思えません。

三年前の741年、聖武天皇の「国分寺建立令」が発せられており、さらに、743年には「大仏建立」の命が出ています。これを受けて、行基は743年~744年「弟子達を率いて勧進する」と記録されているのです。ということは、金集めに回っていると言うことのようです。そして、行基は745年には「大僧正」という僧最高の地位に任じられていますから、金集めが成功したのでしょう。

Choi-Boke爺ちゃんは、行基自身が東国を回らなくても、三十年ほど前に東国を回ったコネを利用して、弟子達・・第二行基・・に、仏像を作らせそれを地方に売りさばかせ(?)、金集め(人集めも兼ねて)を「勧進」したのだろうと、推測しています。 このことについて、薬王院32世貫主の大山隆玄さんは、前出の「多摩の歩み」誌の「心のふるさと 祈りのお山」の中で「その頃の武蔵国は、新勢力ともいえる、特に朝鮮系の渡来の人達により新しい文明と共に、現在の府中市を中心に結集して、国府を、あるいは国分寺が創建されていく時でもあった。いわば、新たなる国造りの進められてゆく時に、その大事業の完成を祈って高尾山上に薬師如来をご本尊とする、薬王院有喜寺が創建されたのであったと考えられるのである。」と、表現されています。

国分寺の建設と何らかの関係はあったということでしょう。ただ、薬王院が今のように立派になったのは、中興の時期からです。その中興の時期に、今日のタイトル「飯縄権現社」が出来るのです。

 

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山頂を出発して、Choi-Boke爺ちゃんが書いていない、奧の院に行きましょう。

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おっと、これは不動堂でしたね。この「不動堂」は、元々は現在の本堂の位置にあった「護摩堂」を明治43年頃に移設して「不動堂」にしたと書かれています。しかし、「新編武蔵風土記稿」の「奧院三社」の記述が少し気に成ります。『奥院三社 奥院は社地後背の山なり 末社辨天と稲荷との二社の間に坂あり これを奥院坂と呼ぶ 坂口より四五十間登りて社地あり 平垣の所は後に十六坪ほと矢来を設く 四辺は松杉鬱蒼としていとものすごし』と書かれていて、その後に『飯縄本地社 南向きなり 社四尺四方橡葺きなり 本地石の不動長九寸はかり 立像にていと古質なる者也』。つまり、この辺に「飯綱権現の本地仏である不動の石像を祀る社があったようなのです。そして、このお堂の後ろにある「冨士浅間社」(明日写真を入れます)と並んでいたようです。

少し石段を下った所にある、もう一つ前の建物「ご本社」と呼ばれている場所が、「飯縄権現堂」でした。これはだいぶ人が多い時の写真ですね。混む季節は、こんな有様です。飯縄権現社「新編武蔵風土記稿」に書かれた「飯縄権現社」の後の姿だと思いましょう。『飯縄権現社 山頂に鎮座す 縁起て案するに 永和年間有喜寺中興 沙門俊源この神を勧請して一山の鎮とす 是よりして世々座せり 神体は白狐に乗りたる像にて長二尺はかり 往古異人の彫刻する所なりとて移して開帳することなしと云 本社九尺四方 ・・・・』
この「異人の彫刻」というのが面白いですね。或いは渡来人などの影響があるのかも知れませんね・・・

Choi-Boke爺ちゃんのブログは、簡単に終了しています。

『稲荷山に回ろうかと思ったのですが、膝が気になるので、いざとなればケーブルで下れる1号路(表参道)を採用。結局下まで歩いてしまいました。今日は、筋肉強化タイツと膝サポーターの二重装備でした。それでも、歩き始めて1時間30分でちょっとふくらはぎが痛みます。幸いに高尾山は1時間30分歩けば殆ど山頂ですから、問題はありませんが、長いコースだと辛いでしょうね。もう少し筋肉を復活させなくてはいけません。今日の歩数は、全部で、17850歩でした。』

17850歩というのは、80爺にはちと多すぎると思いますので、下りは、ケーブルカーかリフトを使って下さい。 明日は、「風土記稿」を見ながら、少し薬王院に寄りましょう。

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