2015/10/26: 奥多摩散歩;木瓜爺撮歩92-19 峰・寶福寺 (No.2483)

国土地理院の地図を切り抜いて貼り付けておきます。

m92-19-00 chizu

今、木瓜爺が向かっているのは、地図の真ん中あたり、「峰」という字が二つありますが、その中間にある小さな卍です。「下(くだ)り」の峰谷川との標高差は200m位でしょうか。なんということもない標高差なのですが、衰えて来た木瓜爺には、かなり辛くなってきています。

ついでなので、ちょっと木瓜爺の疑問を書いておきましょう。「新編武蔵風土記稿」における、「留浦村」の小名(字)の説明についての疑問です。例えば、「坂本」ですが、『坂本 東北の入口を云』・・東北の入口ということは、その方向に他村から来る道があったわけですね。その道はどこにあったのか? 倉戸山を越えてくる道なのでしょうか? 現在の奥多摩湖湖畔に近いところに道があったとすれば、「坂本」は、もう少し南に寄っていたのではなかろうか? これが木瓜爺の疑問です。

『奧 北の山際なり』これは納得できます。『雨降 北の中程なり』雨降りの地名は地図には出て来ませんが、「下り」と「雲風呂」の中間にあります。多分、当時は「下り」「雲風呂」を包含していたのでしょう。『狐屋敷 坂本の西につつけり』これは、水没した場所でしょう。つまり、坂本がもっと南に広がっていて、その西にあったのだろうと思われます。『三澤 村の中程谷間をいう』これは、多分水の中。さて、「峰」です。『峰 西北にて山の中央を云 元禄年間(1688-1704)の図には留浦村の内峰村とあれはこの頃は別に一村の如くなれと 正保(1644-1648)の図にはこの名をのせす 且今小名の内にあるをもて見れは元禄年中峰村とあるも正しき一村にはあらて 今と同しく小名なりしことにや 未だ詳らかにせす』 ややこしい記述なので()で西暦をいれてみました。別の見方をすれば、元禄年間には、何らかの理由で「峰」が存在感を大きくしていたのかも知れません。

m92-18-20 F7870さて、紙面から離れて歩きます。分岐点にあった地図です。「至 峰集落」の道を進みます。 右手に、滝もどき? が見えました。m92-18-21 F7871上の方にもありますね。林道が整備される以前には、つながっていた小滝なのかも知れないな・・などと思いながら歩いております。m92-18-22 F7872

 

 

 

 

やがて、見晴らしの効く曲がり角に到着しました。

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「峰集落」の入口が近いようです。

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まだ、アジサイの花が残っています。左手に入る畑道の中程になにやら立っています。

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m92-19-04 F7879ちょっと見に行きます。

うへっ! これは、「畑門!」 表札付きの門でした。周囲のネットに高圧電気をかけても、ここから入ればよいのか・・・表札の名前? 勿論「原島」さんですよ。

感心して、元の道に戻ります。m92-19-05 F7880

 

 

 

「千本つつじ 七つ石山」の道標です。「千本躑躅」は「七つ石山」の東側にある「高丸山」の巻き道付近のヤマツツジの群生を意味していますが、道標の「千本つつじ」というのは「七つ石山」と「高丸山」の鞍部についた地点名称です。六月が花期ですが、峰谷から標準タイムで3.5時間の登りですから、わざわざ「花」だけ見に行く方は少ないでしょう。「山好き」の特権的「花見?」です。

m92-19-06 F7882

「峰集落」に到着です。「花入り神社のヒノキ」を見に行くのは、後にして、お寺を探します。写っていない左側の道を直進すること数十m。左側にそれらしい場所を見つけました。お墓が見えたのです。

m92-19-08 F7885寺跡

 

このお寺も「新編武蔵風土記稿」の時代から、不思議なお寺なのです。何が不思議かというと、「山号」が伝わっていないのです。その記述から・・

『寶福寺 除地一畝五歩 同屋敷一畝二十五歩 小名峰にあり これも鎌倉建長寺の末寺 開山隆順 三月十日遷化と記したれとも何年と云ことは伝えす 本堂九間に五間東向 本尊薬師 木の立像長一尺八寸なるを置』 普通ですと「**山ト号ス」というフレーズがあるのですが・・・「これも建長寺末寺」とかかれているのは、「留浦本村(現在、留浦浮橋のあるあたり)」にあった、「金玉山 光徳寺」が建長寺の末寺だったからです。

峰にはもう一つ『阿弥陀堂 除地一畝十五歩 小名峰にあり 五間に二間半 本尊阿弥陀 長五尺幅一尺三寸の絵 是は親鸞の筆なりと云 村民持』という記述があります。現在どうなっているか、消息不明です。

m92-19-09 F7886生活改善センター

この建物ですが、「峰 生活改善センター」という看板が掛かっています。脇に、住まいに使える部屋が付いているように見えます。

そして、不思議第二弾は、インターネット上には、「宝福寺」としての電話番号があります。ですから、一応存続しているのです。ブログのタイトルに「寶福寺跡」と書きかけたのですが、「跡」ではなくて、現存なのです。

m92-19-10 F7889六地蔵

「六地蔵」は中央に「延命地蔵」の居られる七体の構成です。一体は頭部破損修復。

m92-19-11 F7901

 

 

 

 

 

 

 

 

m92-19-12 F7895墓地に入る道の左側には、石仏が並んでいました。この中で、写真素材的だったのは、「青面金剛」たぶん「庚申塔」でしょう。苔むしていますが、足元には三猿らしきものも付いています。

一通り拝観してから、灰皿が用意されていたもので、生活改善センターの濡れ縁を拝借して、早朝出発でお腹も空いたのでおむすびを一個たべ、一服していると、一台の軽自動車が入って来ました。車から降りてきたご婦人が、「これから登られるのですか?」と、声を掛けて下さいました。少し空模様が悪くなって来ていましたから、心配して下さったのかと思いました。「いや、今日はお寺廻りでやってきました」と答えて、「ここに、お寺が建っていたのですか?」と質問すると、なんとこの方は生活改善センターの脇の部屋の住人・・つまり「寶福寺」の方だったようです。ここに引っ越して来られた時には、もう現在の形になっていたそうで、センターの中に、仏壇を残し、仏像とお位牌が並んでいると教えていただきました。

m92-19-14 F7910峰集落

「花入神社」の位置を伺うと、あの森です(写真の中央の杉木立)と、指さされます。「ありがとうございました。」と、お礼を言って、出発です。

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