2015/10/29: 奥多摩散歩;木瓜爺撮歩92-22 金鳳山 普門寺 (No.2486)

予定通りであれば、今日はChoi-Boke Worjd のメンバーと、冨士山の中腹を走って(車です)おります。このメンバー、名前の通り「チョイ呆けの楽しさ」を味わっているお年頃でして、毎回なにか奇跡(?)をおこしております。今日も無事に過ごせればよいのですが・・バックに観音様が付いてくださっておりますので、大抵大丈夫でしょう。 それで、ブログは予約投稿しておきます。

奥多摩散歩、普門寺の前にやってきました。この「普門寺」は、湖底に沈んだ「河内村」(「新編武蔵風土記稿」当時)にあったお寺です。「河内」という地名は、谷間にある平地を意味する言葉のようです。湖底に沈んだ頃は「小河内村」でしたが、「小」は小さいという意味ではなく、中世では「大河内」と書かれたこともあるそうですから、「お江戸」の「お」と同じような接頭語的な音だったのではないかと云われる方も居られます。面白いのは、「小河内」への文化の流入は、五日市や檜原から入っている痕跡があるそうで、お寺で云うと、氷川村や古里村のお寺は多摩川系で青梅の海禅寺や天寧寺、つまり「曹洞宗系」であるのに、小河内は秋川系の臨済宗建長寺派なのだそうです。

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そう言えば、水没した「川野村」にあった「金剛山 浄光院」も建長寺派でしたね。一昨日の「留浦村 峰」の「寶福寺」も建長寺派でした。

「留浦(とずら)」という名前は「藤蔓」のことだという話は書きましたっけ? 籠など編む材料にするアレです。藤とは限らず、蔓草全部を含むようです。「いかだ」などもこれで縛ったそうですから、林業とも関連していたのでしょう。そういうものが沢山とれ、商品材料として近隣に出荷していたから、村の名前にまで昇格?したのだろうと推定されています。

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「移築記念碑」が建っていますが、これは湖底に沈むことが決まって、寺の「楼門」や「墓地」をこちらに移したようです。左の方に「道祖神」碑もありますね。一緒に引っ越して来たのでしょうか? 「新編武蔵風土記稿」の記述を紹介しましょう。『河内村 寺院』の所に書かれています。西暦は木瓜爺の挿入です。

普門寺 除地二段六畝十二歩 境内二百五十坪 村の東寄りにあり 禅宗臨済派鎌倉建長寺の末 金鳳山と号す 開山物外 正徳二年(1712)建立す 又云 左にはあらす 貞和年中(1345-1349)足利尊氏開基せりと云 されと開山物外が示寂せしは観応二年(1351)二月八日と云へは 観応は正徳を下ること六十年にあまれり たとひ高徳の僧なりしならんにも六十年前一宇開関せしは年齢(?)のつひて合さるに似たり しからは貞和年中開基せしと云もの その実を得たるにや 本堂九間に六間 十一面観音坐像八寸を安せり 恵行と云へる者の作なりと云

楼門 東向 三間に九尺にて 鐘は寛保年中の銘てえりたれと ここにのせす    観音堂 本堂より西方にあり 九尺四方本尊正観音坐像 木にて作る 長八寸許り』

「物外」というのは「武田物外(もつがい)」つまり「拳骨和尚」でしょうか? 物外は、 寛政7年(1795)生まれ – 慶応3年(1867年)没。幕末の曹洞宗の僧侶・・・違うなあ? 別人です。死ぬ60年前に開山しているのは、計算が合わないと云っていますが、当時は平均寿命が五十才時代ですからね。今だと、若い時に作ったのだのだなあ・・・で、済んでしまいますね。 細かいことですが、「観応は正徳をくだること六十年・・」、木瓜爺の言語感覚では、観応の方が古い時代に感じてしまいます。木瓜爺の言葉だと「観応は正徳をさかのぼる事六十年・・」になりそうです。難しい・・・で、この開山された「物外」和尚は、建長寺の住職をなさった方だそうで、後で詳しく出てきます。

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楼門の額は、薄くなっていてよく見えませんが「金鳳山」のようです。「山」だけは分かりました。

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m92-22-06 F8014足元は、わりと華奢です。鐘の大きさが書かれていないのですが、そう大きなものではなかったのでしょう。

「楼門」の説明です。「楼門」だけが、往時の面影をとどめる、と書かれています。寛政頃の形だそうです。「堂」と「民家」の両方の手法が混じっているらしいですね。

奥多摩町の文化財の頁には、こう書かれていました。『金鳳山普門寺は物外可什和尚(鎌倉建長寺第三十七世)を開山として創建され、中世以来地方文化に寄与した由緒ある寺でありましたが、近代に至って落箔、小河内貯水池の建設によって取り壊され、往時の面影を残しているのは移築されたこの楼門だけです。』

楼門をくぐって進みます。目の前に本堂、右手に庫裡(?)。それ程大きな本堂ではないのですが、距離的に、レンズに入りきりません。まず、パノラマで振ってみたのですあが・・・屋根が入らない・・ナナメから写しましょうか。

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やっと落ち着きました。手前の方の建物は寺務所に相当する建物・・庫裡としましょうか・・その前に、昔の建物の瓦が置かれていました。

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六地蔵様などもお引っ越しされたのでしょうか?

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うーん、揃っているのは新しいものかな? 下の方には、かなり損傷した石仏が並んでいます。地蔵ばかりではなく、観音様やほかの菩薩もおられるようです。

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六地蔵の後部にある墓地。引っ越して来たものと、新しく作られたものが混在しているm92-22-13 F8029ようです。小河内ダムの建設計画は大正期に始まっています。昭和6年に、水没する村が決まったのでした。『ダム建設により水没する小河内村の村民は反対を表明。が、当時の村長である小沢市平氏、は「天子さまの御用水」第一と村民を説得し、無条件で了承し、昭和7年(1932)、東京市議会はダム建設を可決した。』のだそうです。

小河内村から脱出した方の多くは、青梅線沿線に出られたようですが、この水没しなかった周辺に移って、なくなる村を看取られた方々もおられるわけです。m92-22-14 F8031

様々な思いが、飛び交っているようです。境内鎮守としては、「正八幡宮」。この、「正」の意味は相原散歩の時に知りました。03- 町田街道相原;木瓜爺撮歩97-16 正八幡宮 (No.2399)

本堂前で、合掌一礼。こちらにも一礼。

ちょっと休憩します。鐘楼門を見下ろしながら、本日二回目の軽食を頂きます。

時刻は、10:45 なのですが、5時前から動いているものですから、体内時計はこんがらかっています。バスの時刻を確認。まだまだ先です。峰谷橋まで歩いて、愛宕神社を往復出来そうです。地図を見ると、峰谷橋のバス停付近にトイレがあるようです。

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このお寺の境内の続きに、アパート的なコンクリート建物がありまして、そこから出て来られたらしい人が、何人か、境内と墓地入口のお掃除をされていました。さーて、そろそろ出発するか・・・歩きはじめてすぐ、温泉の給湯車に出逢いました。この邊を基地にされているのでしょうか?運転席は空でした。

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一つ書き忘れていたことを思い出しました。「下り 白鬚神社」の所で、それが原島氏の氏神であったことを書きましたが、関連したブログを読んだときに、「原島氏の丹三郎は、古里の丹生神社を勧請して氏神にしている。なのに、なぜ白鬚神社なのだ?」という疑問を書いて居られる方が居られました。実は、こちらに丹生神社がないわけではなく、原村の湯壺があった「熊野神社」の境内には「丹生明神社」がありました。「白鬚神社」は木花咲耶姫命ですから、山の神様。「丹生神社」は「丹生都比売命 (にふつひめのみこと) 弥都波能売命 (みづはのめのみこと)」つまり水神様の系統が入っておられます。同じ原島一族でも、住む環境によって、「メインの氏神」は一律ではなかったのでしょうね。

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今年は、奥多摩の紅葉は、心持ち早いような気がします。

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「峰谷橋」からさきのお話は、10/23に書きましたので、今回は、この辺で打ち切る事にしましょう。このつぎ始めるのは、倉戸山の温泉神社・・山登りはつらいなあ・・

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