2015/11/13: 高麗の鄕;木瓜爺撮歩18-14 稲野辺神社 (No.2501)

難民の受け入れ問題が、世界中で問題になっています。日本はこういう問題に無関心と批判される事もありますが、関心の薄さは、距離の問題も大きいでしょう。木瓜爺が、高麗の鄕に興味を抱くのは、ここが1300年前の難民受け入れ政策の例のように思うからです。正確に言うと「難民」ではなく「移民」若しくは「海外移住」の受け入れだったかも知れませんが、とにかく、朝鮮半島からの異民族に、「高麗郡」というかなり広範囲な一国を作って、相当な自治権も与えてて住まわせたのは、大英断だったのでしょうね。勿論、自治の中心になった「高麗王若光」という存在も大きかったのでしょう。そして、大和朝廷としては「管理体制の下で、開拓してもらう」というメリットを重視したのでしょう。高麗川のぐにゃぐにゃした流れから想像するに、当時としては相当な暴れ川だったでしょう。暴れ川というのは、肥沃な土地を作ってくれるのですが、やっと出来た作物をあっさり流してしまう事もありますから、高麗の開拓民は随分苦労したでしょうね。

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そんなことを考えながら、木瓜爺は北に進んでいます。廃屋になりかけている家も見かm18-14-02 F0809けます。畑があり、その脇に、ごく最近建てたと思われる家もあります。m18-14-03 F0811

 

 

 

 

 

m18-14-04 F0812稲野辺神社

畑なのか、住宅を造る準備なのか、分からない広場の向こうに、鳥居が見えました。道路を挟んで、前にお寺もあるようです。「建光寺」でしょうか・・・地図では、その名があります。

まず、「新編武蔵風土記稿」の神社を眺めます。

『稲ノ邊社 當社ハ鬼鹿毛ト云名馬ノ霊ヲ祀リシ所ニテ モトハ嘶明神(木瓜爺注:いななきみょうじん)ト号セシテ土人等訛リテ イナノヘト唱ヘリ□ 新田ノ地ニ古松一株アリ 是カノ馬ヲ繋シ木ニテ古ハ此社ソノ木ノホトリニアリシテ 後當所ニ移セリト云』

m18-14-05 F0814□のところ、現在使われていない文字です。ちょっと、「猫の足あと」さんにお伺いたててみます。どう書かれているかな? ははあ「今」の字をあてて居られました。原形は、人の中に了が書かれて居るのです。もう一つ違いがあります。「稲野辺神社はもと囃明神(いななみょうじん)と称していましたが」 と書かれていますが、私の持っている「新編武蔵風土記稿」のコピーでは「囃」ではなく、「嘶」の文字が使われています。

「嘶(いななく)」というのは、馬がヒヒーンと啼くことですから、全く無理がありません。「囃」は「おはやし」ではないのかなあ? 変ですねえ? お知らせしておこう。

木瓜爺は「いななき明神」が訛って「いなのへ明神」になったと、解釈することにします。それで、「鬼鹿毛」伝説を説明しないと、木瓜爺らしくないですね。これは、かなりの難事です。

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「鬼鹿毛伝説」というのは、各地に点在するのですが、この付近では、新座市の大和田にある「鬼鹿毛馬頭観音」が、有名だそうです。元のお話は、秩父の小栗という人が、急用で、江戸か鎌倉か(?)に、愛馬「鬼鹿毛」にむち打って駆けつける途中、馬が死んでしまうのですが、その亡霊がそのまま主人をのせて走り続け、目的地に着いたら消えてしまうという話。帰り道に、愛馬の死体を発見して、びっくり、乗っていったのは何だったのだ? というようなお話なのですが、これが、いろいろ脚色されて、主人が「小栗判官」、目的地に居るのが、悪人にさらわれた「照手姫」というように発展してm18-14-08 F0822います。先ほどの、「鬼鹿毛馬頭観音」は、元禄九(1696)年に「鬼鹿毛供養」の為に建てられた、大きな馬頭観音です。このほか、現・朝霞市になっている「膝折村」は、この「鬼鹿毛」が膝を折った場所だそうで、「新編武蔵風土記稿」に記述されているそうですが、木瓜爺はまだダウンロード出来て居ません。旧川越街道の各地に伝説がのこっているようですが、小栗判官系では、藤沢の「遊行寺」にも伝説があるそうです。というわけで、この「稲ノ邊神社」における「鬼鹿毛」も、この一連の伝説の一つでしょm18-14-09 F0825う。

神社庁のデータでは、「稲野辺神社 法人代表 高麗文康 所在地 日高市新堀591」この 高麗さんは、「高麗神社」の代表者で「高麗王若光」の子孫ですね。

神殿の中まで覗いてしまいました。ちょっと裏にも回ります。神殿が見えました。ちゃんと「木鼻」も付いた、本格的なものです。

実は、木瓜爺、この本殿よりも、もっと魅力を感じた祠があるのです。ただ、何を祀っているのか分かりません。もしかすると、こんれらの小祠が、昔の姿なのかも知れないな・・と、思いながらシャッターを切っていました。

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手前と奧の方と、二箇所にあります。

ただし、「新編武蔵風土記稿」には、『神明社二社 建光寺持』と記されていますので、神仏分離との関係で、二つの神明社が、ここに移っている可能性もあるでしょう。

明日は、その「建光寺」の方に行ってみます。

おっと、この神社の東側の道に面して、立っている「神社名石柱」を忘れて居ました。どこかに挿入しようと思ったのですが、レイアウトが乱れそうなので、明日に回します。

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