2015/11/19: 高麗の鄕;木瓜爺撮歩18-20 高麗郡建郡1300年 朝鮮半島からの渡来人 (No.2507)

m18-20-00 F0979 高麗の鄕を歩くと、写真のような旗(幟?)があちこちに見られます。2016年が高麗郡が出来て1300年になるので、一大イベントにしようという「日高市」の目論見らしい。

11/09のブログに書きましたように、「続日本紀」に「霊亀二(716)年 駿河甲斐相模上総下総常陸下野諸国の高麗人1799人を以て武蔵野国に遷し高麗郡におく」と書かれていることを根拠としているのでしょう。木瓜爺の頭の中を整理するために、まず、この1300年前の時代が、どんな時代だったかから書きはじめましょう。

「古事記」が作られたのが712年、「日本書紀」が献上されたのが720年です。「続日本紀(しょくにほんぎ)」が完成したのは、797年です。つまり、716年というのは、まだ日本の歴史が文字にならない時代なのです。「古事記」は神話ですからね。713年に各地方の国司に「風土記」を作れという命令が出たばかりです。よろしいですね、高麗郡の建設時点では、まだ正確な記録を文字で残す習慣は出来て居ません。ですから、詳しい事は分からないだろう・・という時代なのです。いろいろな推測説が出て来て当たり前だと思ってください。

さて、撮歩を進めながら、木瓜爺の悩みを聞いてください。「高麗家屋敷」に近づいているとき、神社の鳥居を見つけました。

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入って行きましたが、神社の名前らしきものは見つかりません。

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高麗には、高麗王若光を祀る「白髭神社」が沢山有ったと言いますから、これもそういう神社かも知れません。

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社紋らしきものを探しています。梁の上の模様・・何でしょう? 偶然分かるかもしれませんので記録にとどめておきます。

で、木瓜爺の悩みに戻ります。木瓜爺は、「高麗」という名前を「高句麗」の略のように思っていました。それで、不思議な気がしたのです。日本は「高句麗」とはあまり仲が良くなかった筈・・・歴史を振り返りますよ。日本が朝鮮半島(以下 半島といいます)と接触するのは、368年「百済に使者」を出したあたりです。369年に「任那(みまな)」が成立しています。ですから、四世紀の半ばあたりには、半島の一部を占拠したことになります。神話における「神功皇后」の戦でしょうか?
この頃の半島にはどんな国があったかというと、南端(つまり日本に近い部分)に「百済(くだら)」中央に「新羅」、北側に「高句麗」です。この三国は、小競り合いをしきりに繰り返しています。それに日本も巻き込まれてゆくのですが・・・

まず、日本の侵略は、「391年 倭国軍、百済・新羅を破る」は勝ちですが、「404年 倭軍 高句麗と戦って敗退」となります。侵略失敗ですが、半島の国々を属国のようにして、付き合って行こうとしています。512年には「任那」を「百済」に割譲・・・と言うことで、倭軍は戦線縮小しています。この頃、「百済」が半島文化の日本への供給口になっているのです。日本に、「仏教」が入って来たのは、この「百済仏教」で、520年頃です。ちなみに、唐の「玄奘三蔵」が、インドを目指して旅立つのが629年ですから、そのずっと以前の話なのです。中国は「唐」の前の「隋」・・・日本からは「遣隋使」が送られる時代です。なお、「百済」の仏様を見たいなら、「飛鳥寺」の大仏をご覧いただければ、はっきり分かるでしょう。

547年、その「百済」が「新羅」に圧迫され、日本に救援を求めて来ます。554年には倭国から「新羅」に出兵しています。しかし、「新羅」は強くて、562年には「任那日本府」も「新羅」に滅ぼされてしまいます。「百済」は584年仏像を大量に日本に運んだようですが、倭国は神道派の「物部氏」が権力をもっており、この仏像を585年に焼き捨てたりしています。その祟り?で、587年に物部は蘇我氏によって滅ぼされています。・・・ここまでの経緯で、「高句麗」は「日本(倭国)」の敵であると認識出来ますね。ところが、不思議な事に「高麗尺」という計量器・・つまり「物差し」が六世紀後半(550~600) に、日本に入って使われ出しているのです。文化交流はあったのですね。・・・593年聖徳太子が摂政になっていますね。

そして、618年、中国の方で「隋」が「唐」に滅ぼされます。この「唐」が半島に手を伸ばしはじめるのです。「唐」は、「新羅」も「日本」も、調(貢ぎ物を持って来させる)の対象と考えています。つまり、子分だと思っているわけです。しかし、この子分同士が仲が悪い・・・642年「百済」と「高句麗」の連合軍が「新羅」を攻めます。「百済」は「任那」を取り返します。「新羅」は、親分の「唐」に泣きつきます。644年唐は「高句麗」を攻めます。唐は露骨に半島を我が物にしようと、圧力を強めました。この644年は、日本では「大化の改新」国内の政権交代で、大わらわです。ここで、今までと違う事が起こります。646年「高句麗」「百済」「新羅」の使者が来日、「任那の調を新羅にかわって百済が貢じる」。新しい天皇「天智天皇」に対する儀礼の意味もあったでしょうが、半島側が唐の圧力に対して、東方の日本を頼る準備を始めているように思われます。これに刺激されてか、日本では九州に「防人」を配置し始めました。また、東国の国司に命じて、戸籍の作製をはじめています。

650年、ついに「新羅」は「唐」の年号による暦を使いはじめました。659年「高句麗」と「百済」は「新羅」を攻めます。660年「新羅」は「唐」に援兵を求め、「唐」は18万という圧倒的な兵力によって、「百済」を攻撃、「百済王」を捉えてしまいます。是はいけないと、百済人は、662年・以前から日本に人質として来ていた百済の皇子「豊彰」を「百済王」として立て、日本の軍力を借りて、反撃に出ますが、663年待ち受けていた「唐・新羅」軍によって、「白村江」の会戦で日本軍は大敗、「豊彰」は「高句麗」に逃れます。これを追い詰めた「唐・新羅」連合軍は、668年・ついに「高句麗」を滅ぼし、「新羅」が半島を統一しました。このため、「亡命・帰化人多数 日本渡来」がおきたのです。・・・やっと、半島の人々が日本に多数亡命してきたことがはっきりしました。690年・持統天皇(女帝)即位の年も百済人・新羅人の多くが帰化したという記録があるようです。戦勝国である「新羅人」が何故? と思った木瓜爺ですが、どうも「唐」で「則天武后」が即位したことと関係ありそうです。新政策への不安が、半島からの脱出に拍車をかけたのでしょう。この690年頃帰化した新羅系の人々は、「鉱物資源の発見・精製」などのスペシャリストが含まれており、707年秩父で「純度90%の銅鉱石」を発見し、和銅鉱山からの銅献上という大成果をもたらしています。
 これで、半島の人々が、亡命・帰化という形で、日本の各地にやってきたと言うところまでが分かりました。木瓜爺の疑問はだいぶ絞られて来ました。それは「高麗王」はどこからやってきたのだ・・・という一点です。高句麗は668年に滅びています。高句麗の残党(?)は、さらに北に逃れて 698年に「渤海」という国を作っています。だから、高句麗の王様が、716年になって忽然と日本のど真ん中に現れるわけがない! ・・・・この答は、後にしましょう。分かってみれば、実に馬鹿馬鹿しいというか、木瓜爺の思い込みの失敗なのですが・・・

歴史年表を見ていて、もう一つ分かったことがあります。戸籍を作らせたことと関係が有りそうなのですが、朝廷は人口移動を盛んに行っていました。特に目を引いたのは、「715年:相模国など諸国の富民1000戸を陸奥国に移住させる。」「716年:陸奥国など五国の百姓500戸を出羽国に移住。」北に北に、開拓民を移動させているのです。稲作農業などの普及なのでしょう。ですから、716年の半島系の人々の高麗鄕移動も、こうした流れの一つだったのかもしれません。ただ、それが、日本のど真ん中である「高麗鄕」を選んだ裏に、半島系の人々の強烈な怨念(?)があるような気がしてなりません。このことは、多分あと何回かのブログの中で明らかに出来るでしょう。

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謎の神社の近く、個人宅の屋敷神らしき位置にも神社らしいものが有りました。先ほどの神社の真下です。屋根にある紋が面白い形で、今まで見た事がありません。山のすそから髯が生えたような不思議な形です。

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暫く歩くと、子の権現方面への道が分かれて居ました。山頂まで25km・・車用の案内でしょうね。m18-20-07 F8246

 

少々疲れたなあ・・ちょっと立ち止まって、水分補給。前の方をみると、どこから現れたのか、女性二人歩いています。

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そろそろ、屋敷かな?

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到着です。国の重要文化財。「高麗家」です。

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質素な農家スタイルです。神官である「高麗家」の住宅なのです。

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「高麗神社」のことは、明日書きますが、「高麗王」を祀った神社を、子孫の方が神官として守っているという事です。此の建物自体は西暦1600年頃の建設、つまり400年余たっているわけですね。 なお、高麗の鄕の古民家は、巾着田の近くに展示場が造られていました。新築の古民家?があるようです。

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広い庭にで「菊花展」が開かれています。奧の方に見えている屋根は「高麗神社」の建物です。つまり、ここも「高麗神社境内地」なのでした。

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やわらかな家ですねえ・・見ているだけで、心が安らぐ感じがします。メンテナンスは大変でしょうが。明日は、「高麗王」のことを書けるかな? ちょっと出典メモをどこかに挟んでしまって・・・これから探します。

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