2015/11/25: 高麗の鄕;木瓜爺撮歩18-26 (野々宮村) 野々宮神社 (No.2513)

「新編武蔵風土記稿」によると、野々宮村というのは、東西五町南北二町余という平坦地ですが小さな村だったようです。殆どが陸田で、家は数十軒が村の西に散在していると書かれています。それで、村の西南のほうに新田を作っているが、お代官の支配になっていたようです。

では、野々宮神社に寄りましょう。「村社 野々宮神社」の石碑が立っていますが、鳥居が珍しい色です。

m18-26-01 F8473野々宮神社

m18-26-02 F8475

 

 

 

 

 

 

 

ご覧のように「黒塗り」なのです。

m18-26-02 F8476

「祭神は 天照大神 瓊々杵尊、猿田彦、倭姫命。創立不詳。古文書によると大宝3(703)年社殿修築」・・・「新編武蔵風土記稿」と少し違いますね。『野々宮社 天照大神 瓊々杵尊 猿田彦命 倭姫命を祭と云 慶安二年四石五斗の御朱印を賜ふ 例祭九月九日 当村及び楡村猿田村新堀村栗坪村等の鎮守なり 神職野々宮市正 吉田家の配下なり』  最後の處に出てきた「吉田家」というのは、「吉田神道」と呼ばれた神道・神官の本家です。

日高市の説明にある大宝3(703)年の修復という記述が 怪しい気がします。なぜなら、この地は、715年高麗人が来るまで、人が住んでいない原野だったと云っているのは日高市の学者さんでしょう? 703年に修復するとすれば、650年頃には、もう出来て居た筈・・・人が沢山住んでいたことになりませんか? どっちがホント?

むしろ後半に書かれている「野々宮神社は京都嵯峨の野宮の分祠」という見方で行きましょうよ・・そう考えれば、高麗郡建設の際、京都からお祓いの神様を連れて来たと、うまくつじつまが合いそうなのですが・・・そうは問屋が卸さない、嵯峨野の野宮の説明によると、「野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。 嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。その様子は源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されています。 (以下略)」 こりゃ駄目だ、時代が平安朝まで下っています。今問題なのは、奈良・飛鳥の時代・・・伝わる「口碑、伝説」というのを詳しく知りたいですね。一つ云えることは、700年頃のこの辺り、開墾は進んで居なかったかも知れませんが、決して無人の地ではなかっただろうということです。

m18-26-03 F8482

社殿は、ご覧のように、小ぶりな社殿です。比較的新しい改装でしょう。ここには、面白い物があるのですが・・・「土俵」なのです。

m18-26-04 F8483

手水舎の手前にある囲に中からお見せしましょう。

m18-26-05 F8505

これ力石です。凄いですねえ・・・こんなので力比べをする人がいるなんて・・・

m18-26-06 F8489

こちらが土俵なのですが、見た目「子供相撲用」かと思いましたが、此の土俵、曰く付きの物でした。

m18-26-13 F8486

「拝殿前の6m四方、高さ45cmの土壇の上には、天保二年(1831)に土俵古実作法にのっとり江戸相撲處寄行司兼 木村庄之助正武が築いた土俵が保存状態も良く残っています。・・・・」

昔、江戸相撲が興行にやってきた名残だというのです。ただし、木瓜爺はだまされないよ! 45cmの高さの土俵に上がるのは一苦労だけれど、この土俵は4.5cmしかないらしく、すり足で横切れた! どうしてこうインチキなことを書いてすまして居るのでしょうか?  「・・・土俵がありました。それを記念して同じ位置に土俵を作って有ります」としておけば、何でもないことなのに・・・

m18-26-08 F8494

社殿の方ですが、後部に新しい覆殿が作られています。あの中に古い神殿が入っているのでしょうか。拝殿の方からですと、こんな具合に見えます。

m18-26-07 F8493

さて、木瓜爺の推察(?)を、ちゃんと締めくくりましょう。この神社、おそらく、高麗王が入植した時に作られた、若しくはそれ以前にあった古社を改装新築した神社でしょう。お祓いの神社といいますが、新田開拓いや、ここの場合は新村作りですから、災いを防いだり、助けていただく神様を招きたかったので、作られた神社でしょう。高句麗における宗教が、この8世紀初頭にどうなっているか、ちょっと調べてみましたが、日本と同じように、中国大陸の影響によって「神、仏、道教、耶蘇教」が混在していたようです。ですから、最初は高句麗の神様だったかも知れません。或いは、一緒にやってきた日本人が、高麗王に薦めて、都に近い、若しくは高麗王が住んでいた「近江」か、或いは「武蔵」に来る前に立ち寄っていた「相模」あたりの神社からの勧請だったかも知れません。現在の祭神は、どうせ明治時代に勝手に入れ替えたものでしょう。

高麗神社は「高麗王を祀った神社」ですから、高麗王が生きていた時代に、開拓村で「神社機能」を有していたのが、この「野々宮」なのでしょう。「野々宮」という名前も案外、「なんにもない野の宮」だったのかも知れませんねえ・・・

m18-26-09 F8500

これが、その頃の姿! なんて嘘を言ってはいけません。境内にあった小社です。この神社、横に刀が置かれていますね。何をまつっているのかと、拝みに行きました。これが「特潜神社」・・・特殊潜行艇で散った方々をお祭りした神社なのです。別に、もう一つ「山神」と書かれた祠もありました。

m18-26-10 F8506

境内のベンチに腰を下ろして、昼食にしました。右手の建物は例によって集会場になっていますが、その後に公衆トイレも別建てになって作られていますから、散歩の一休みには有難い神社です。

ここから、どう歩くか、地図で道を探すと、大回りして行かねば成らないようでした。でも、川沿いに近道が有りそうな気もします。食事を終えて、トイレに(下の写真の白い建物)・・と、何だか呼ばれているような・・・この道、行って見よう! 道自体は行き止まりになるらしいのですが・・・m18-26-11 F8511

広告
カテゴリー: 寺社, 散歩 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中