2015/11/26: 高麗の鄕;木瓜爺撮歩18-27 野々宮・天神社 (No.2514)

頼りない道は緩く曲がっています。二叉に分かれ、一方は崖を下っています。下った處は墓地のようです。その崖を下る道の途中に神社が見えました。もう一方の道は、住宅に入る私道のようです。

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m18-27-03 F8516見えた神社は「天神様」でした。「新編武蔵風土記稿」では、野々宮村には天神社の記述はありません。猿田村や平沢村には記述されていましたから、あっても不思議ではないのですが、インターネットで何気なく「野々宮天神社」と入れて検索しましたら、奈良や大阪に有るのですね。中には「野々宮天神 別名を 野々宮神社」という」などというのがあって、ここの野々宮神社も元は天神様じゃないのか? なんて喜んで見たりしましたが、詳しく調べると、だいたい地名としての「野々宮」でした。小さな社です。どこかの屋敷神が、土地の切り売りで、ここに避難されたのかも知れません。屋敷神はお稲荷さんが多いのですが、庭に天神様が軒並みに並んで居る地域も見かけた事があります。多分家業が影響するのでしょうね。まだ、学校に通っている孫達のことをお願いして、出発。住宅への道をすすみました。住宅の脇を林の方に入って行く道がありますね。是が狙いなのです。左下に畑があります。その畑を抜けると、川の橋の近くに出ると踏んだのです。

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予想通りの展開です。竹藪の中を抜けて行きます。左に曲がって、ちゃんとした道路につながりました。

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そして、軽自動車しか通れない幅の橋に出ました。おそらく自転車と人間用の生活橋。

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橋の名前は付いていません。そういえば、「野々宮神社」が幾つもの村の鎮守を兼ねて居ましたね。あれは、川をあまり苦にしていないのですね。つまり、江戸時代から橋はあちこちにかかっていたのでしょう。いやもっと昔に、それこそ新堀村の「高麗王」の家来?が「楡木村」に住める程度に、川を渡っていたのです。

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川を渡った處に、こんな石碑が立っていました。ここはもう「新堀村」に入っているのか? この辺は、修験道の名残もあるのでしょう。しばらく川沿いにあるきます。小さな墓地もあります。

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少し広い道に出て来ました。どちらに行けば良いのやら? 交差点のところにある白いm18-27-12 F8534柱に「高麗神社参道」と書かれています。と言うことは、狭い方の道を直進したほうが良いのかな。

此の付近、道標がいろいろ有るのですが、意味がよく分からないのが多くて・・・

高麗神社参道を行くと、高麗神社つまり「聖天院」より東北の方に行ってしまいます。それで、写真の左端にちょこっと見える道を進みました。m18-27-13 F8535ああ、「聖天院」が見えます。こうなったら、方向がはっきりしますから安心です。道はしばらく川沿いですが、直ぐに離れます。丁度正面に「聖天院」が見えるようになった處から、直進です。

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ここが、最初の門ですね。両側に門柱?が立っています。 じつは、高麗鄕の絵地図では、此の付近に「法恩寺」とかいう寺名があるのですが、今は撤去されて「聖天院」の駐車場用スペースになっているようでした。明日は、「聖天院」の山門脇にある「高麗王廟」に行きます。

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