2015/11/27: 高麗の鄕; 木瓜爺撮歩18-28 高麗王廟 (No.2515)

「高麗山 聖天院 勝楽寺」というのが、「聖天院」のフルネームです。院を先に書くのか寺を先に書くのかよく分かりません。規模的な感覚でいえば、山号寺号院号なのですが、そうでもない處もありまして・・・

野々宮神社から天神様の横の抜け道を経て、「聖天院」の前まで来た木瓜爺、この前「高麗神社」の方からやってきた時に、横目で見て通り過ぎた「高麗王廟」に、まずご挨拶をして行くことにしました。

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m18-28-00 F1129「聖天院」の大駐車場から、山門の方に行くと、まず高麗的仁王様?が立っていいていました。JR高麗駅の前にある(下の写真)ものとは少し違いますが、意味合いは同じでしょう。「将軍標(チャングピョン)」という、守護神です。ここでは「人面」を用いていますが、鳥のようなのもあったと記憶しています。・・・なかなか面白い顔をしていました。「天下大将軍」の方は鬚らしきものがあります。この将軍標は、「道教」の影響を受けたものだそうです。

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この木瓜爺ブログを見ていただいている方には、もうおなじみの文言が書かれていますが、「高麗王若光」。西暦666年10月、「二位玄武若光」の名前で、高麗使者団の一員として来日。この「二位」というのは高句麗の官位だと思いましたので、調べて見たのですが明確な解説・論文はまだ見つかりません。ただ、少し前の時代において、高句麗が全半島を抑えていた頃、新羅王に「二位」に相当する官位(名称としては違います)を与えており、相当高い地位のようです。ちなみに日本の制度では、正二位というと「右大臣」、従二位が「左大臣」です。木瓜爺の勝手な解釈で進みますと、「玄武若光」は、唐の圧力を避けて、そのまま日本に亡命、近江に住みます。文化的後進国である日本の官僚として就職し、「高麗若光」として、高句麗の制度などの取り入れなどを手伝ったのでしょう。その功により703年、「文武天皇」によって従五位、「王(こにきき)」という官名を貰います。これは「王族の子孫」という意味の姓だそうです、分かりやすく云うと「高麗王」という一代限りの苗字を許されたと考えましょう。一代限りということは、子孫の方が「高麗」姓に戻っていることから明らかでしょう。

「高麗王」が1799人の高句麗人を引き連れて、高麗郡にやってきました。なぜ、それ程多くの人が従って来たのか? 困難な荒野の開拓を成し遂げたのか?・・記録には残っていませんが、「高麗王若光」の大きな夢に共感した人々だったのではないでしょうか・・その夢とは、「滅びてしまった高句麗を、この日本に再興しよう!」だったのではないでしょうか。だからこそ、まだ日本人の少ない、「日本島のまん真ん中の地」を選んだ、と思ってしまいます。

此の時代よりも400年ほど前になりますが、高句麗が半島全体を制圧していた時期があります。それで、半島全体を「高麗(Korea)」と呼んだのです。この時期、日本はまだ統一国家には成っていません。邪馬台国以前の時代です。早い話が縄文人が住んでいただけと思いましょう。「高句麗」の歴史を記したものには、この時代は日本も属国扱いになっているようですが、おそらく対馬・壱岐あたりは、間違いなくその勢力圏に入っていたでしょう。吉野ヶ里で代表されるような九州の住民がどうだったのかは分かりませんが、相当の高句麗人が入ってきているでしょう。半島からの圧力はどんどん強くなっていったでしょうし、九州に生まれた「邪馬台国」が東進して行くというシナリオも描けます。・・・それは、専門家に任せるとして、とにかく、日本人が日本国m18-28-05 F8664を意識し、国家建設にかかる以前に、高句麗の文化の洗礼を浴びたということを記憶しておきたいのです。日本の実在した天皇達の古墳から発掘された「高麗壁画」の存在は、日本国の創立者は高麗の人ではないか? と、思わせる程です。「若光」もそういう歴史を思い浮かべて、日本に亡命したのでしょう。

山門の所から、少し右に進みます。大きな廟ではありませんが、囲われた範囲m18-28-06 F8665にあります。これが、「廟」の標識。ただし、木瓜爺の認識と違うのは「王」の位置です。「若光王」ではないのです。「高麗王若光」なのです。勝手に高句麗の王にしたら、本当の高句麗王達が怒りますぞ! 無神経な人間が居るのですねえ。これを建てたのが「在日韓国大使」なのですから、ちょっと呆れています。

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こちらが、廟の入口。「廟」というのは、「墓」ではありません。仏教で云うと「仏壇」みたいな物だと教わりました。「墓」は別の所にあって、「霊」を祀る場所が「廟」なのだそうです。

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石を積み上げた、「原始的な五輪塔」という感じです。・・・常識的に考えて、墓をこm18-28-09 F8672んな平地に置いて、見せ物にするはずがありません。「墓」でないとすれば、どこに墓があるのか・・・おそらく、菩提寺である「聖天院」のどこか・・多分、山の上の方で、高麗の鄕を見下ろせるような場所にひっそりと、眠っておられるのではないでしょうか。詮索はしないことにしまして、とにかく、ご挨拶して参ります。そうだ、お顔を見せていただきましょう。一番良さそうなの銅像は、本堂の中だそうで、ちょっと光量も足りませんので、本堂脇の広場から、石像でご出演いただきます。m18-28-10 F8623

 

 

 

いかがですか? 「白髭大明神」の「白い髭」は「あごひげ」でした。

どこかで逢った? 此の人じゃ有りませんか?Shotoku

若光さんの方が太っている・・確かに・・

そう言えば最近、聖徳太子にはお会いしなくなりましたね。木瓜爺貧乏になった所為かな?? いや、武内宿禰にも会わないなあ?

冗談はさておいて、この「若光像」昔の絵が有るわけではないでしょう。現代に生きている高麗王の子孫といわれる方々のお顔や骨格を参考に、絵師か彫刻家が作り上げていると想像します。そうすると、木瓜爺と同じように、聖徳太子像が浮かんで来て、なんとなく似てくるという結果になっているのではないでしょうか? 所詮「伝説」の世界のお話です。後日、「新編武蔵風土記稿」に記された「別説」も紹介できると思いますが、ここは「伝説の世界」に浸って下さい。ディズニーランドいやコマランドで遊んでいるのです。「高麗王若光」が、信仰していた神様のことが分かりました。「猿田彦神」だったそうです。「猿田彦」といえば、天孫降臨時の道案内。転じて「土地開発」なのどの神様になって居られますから、新村作りの「高麗王若光」さんが信仰する対象にはうってつけですね。歩いて来た「猿田村」の名前も、「猿田彦神」から頂いたのかも・・・野々宮神社の祭神に猿田彦神が入っていましたね。そう言うことだったのか・・
・・・とすると「高麗神社」の前身は「猿田彦神社」だったかも知れないなあ・・と、思った次第。調べて行くと、猿田彦=武内宿禰=白髭明神 という流れが有るようです。ですから、「高麗神社」も最初は「高麗王若光」自身が祀った「猿田彦」で、それに子孫が祀った「若光」が加わって「白髭明神」となったのかも知れません。

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「高麗王廟」横には、「高麗殿の池」という池を含む庭園が造られています。しばし、佇んで、休憩。

明日は「聖天院」の本体に入りますが、これが広いのでねえ・・何日かかってしまうか・・「朝鮮半島出身者の無縁墓地」という大きな墓地が出来て居るのです。ここに、歴代の「高麗王」が居られるようですから、その話を調べて置かないといけないかもしれません。努力して二日で上げましょう

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2015/11/27: 高麗の鄕; 木瓜爺撮歩18-28 高麗王廟 (No.2515) への2件のフィードバック

  1. tkutsu より:

    今回は一字一句まで読ませて頂きました、巾着田の帰りに立ち寄った事がありますが、立て札に書いてある程度の知識です。 ダウンロードします。

    • bokejii より:

      若干修正すべきことがあるようです。というのは、古代における「聖天院」の位置が、もっと前方にあったらしいのです。そうすると、この王廟は、寺の背部ということになり、一目にさらされる場所ではなくなります。ですから、墓地を兼ねていたかもしれません。(木瓜爺)

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