2015/11/29: 高麗の鄕;木瓜爺撮歩18-29 高麗山 聖天院 勝楽寺〔2〕 在日韓民族無縁仏慰霊塔 (No.2517)

「聖天院」の由来について、「聖天院」自身の説明は、拝観券の裏面に記載されていますので、これを紹介しておきましょう。

《【聖天院縁起】聖天院は奈良時代に高句麗より渡来した高麗王若光の菩提寺として、侍念僧勝楽上人により天平勝宝3年(751年)に創建されました。若光の守護仏聖天尊を本尊とし爾来600年間法相宗の道場でありましたが、貞和年間(1345年)中興秀海上人の代に真言宗に改宗されました。天正年間(1584年)圓真上人により不動尊(胎内仏弘法大師御作)を本尊とし聖天尊を別壇に配祀し、現在に至っています。江戸時代には高麗郡の本寺として、門末54箇寺を擁するほどの隆盛を誇り「院主の格式は諸侯に準ずる」とも記録されています。

平成12年(2000年)裏山山腹に7年の歳月を費やした総欅造りの新本堂が落成し、西方山腹には在日韓民族無縁仏慰霊塔が在日有志の厚志により完成しました。また、旧本堂跡地には、中門、塀の建立・阿弥陀堂(足利時代)移設・庭園の拡張等の整備がなされ、平成年間に山容が一変しました。》

「侍念僧」というのは、おつきの僧侶、この場合は「若光」の亡命時からづっと仕えていた高麗僧でしょう。751年に創建としていますが、日本流に考えるとおそらく若光の生存中から「持仏堂」的なものがあり、僧勝楽が聖天尊をお守りしていたでしょう。「庵」的なものは、もっと前からあったと思われます。

?マークに見える木を見ながら、新本堂に向かいます。足元にも注意しないと・・m18-29-20 F8585m18-29-21 F8586

 

 

 

 

 

 

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「阿弥陀堂」を見下ろしています。あそこに沢山お地蔵様が居られたのですねえ・・水子供養のお地蔵様方でしょうか?

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「よそ見してると危ないよ!」 仁王様が石段を見守っていて下さいました。この新本堂が造られた場所は、山を削って平にしたようです。その工事の時に、新本堂のナナメ後ろに石灰岩の岩床が現れ、それを「雪山」と名付けたらしい。

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m18-29-26 F8601これが、新本堂。大きいです。奥行きがあるので、仏壇の所まで光が届きません。三脚を担いでくるのだった・・・ISOを最高まで上げて写したのですがそれでも手ぶれでした。中央にあった本尊不動尊です。ここは、電気が付いているので、ナントカ写ったようです。

左方、お位牌壇前の厨子の中に人物坐像が見えたのですが、それが「若光」なのか、冠を被m18-29-26B F8609り、髭はなし。開基者でしょうかねえ?

「新編武蔵風土記稿」によると、少し時代が下りますが、「高麗彦四郎経澄」という方が、文書と共に現れます。十四世紀、足利期の武将で、「地頭」だったようです。そういう方かも知れません。

「新編武蔵風土記稿」のついでに、「高麗王」に関する「異説」を書いておきましょう。これは、高麗神社の前身と思われる大宮社の記述の中にあるのです。『(前略)・・当村及び高麗本郷 高岡 横手 久保 薹 梅原 栗坪等八ヶ村の産神なり 當社は鎮座以来今に至まて星霜千有余年なれは その興廃しるへからす 又事実の伝えを失ひぬれは詳ならす 按するに続日本紀に従三位高倉朝臣福信は武蔵国高麗郡の人なり 本姓背奈 其祖福徳 唐将李□に□し平壌城を抜き国家に来帰し武蔵に居る 福信は則福徳の孫なり云々 とあり 社伝に云 高麗王とは福徳がことか或いは其子なとなるも知へからす 別當大宮寺は高麗王の子孫にて世々社司たりしに(以下略) 』

続日本紀に書かれている、従三位高倉朝臣福信という人は高麗郡の人で、本当の姓は「背奈」である。その祖父は、唐の将軍に協力(?)して「平壌城」を落とした福徳だが、日本に帰化して武蔵に居た。社傳によると、この福徳か、若しくはその子あたりが「高麗王」だったのだのかも知れない・・・という話なのです。この話、唐に協力したとすると、新羅の人なのか? それとも、唐に敵対したのか、□のところの文字が判読出来ない木瓜爺には、理解不能です。ただ、高麗郡に住む人が、従三位というような高い官位を有しているということに驚きというか、帰化人が日本の朝廷にしっかり食い込んでいた事実を認識しました。

新本堂の脇を通って、トイレに寄った木瓜爺、「雪山」に「不動尊」が祀られていることに気付きました。周りの岩は石灰岩です。

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新本堂の前には展望台が出来て居ます。そこから見える景色。

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本堂の横の台地には、昨日紹介した「若光像」が建っています。その外側に鐘楼の方に行く石段があります。

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「慰霊塔」に行くのはここを上がるのです。

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鐘楼の脇を通り、奥に進むと、「慰霊塔」の方に下る道と、見晴らし台に上がる道に分かれます。先に、見晴らし台に上がったのですが、写真は後に回して、「慰霊塔」の方を先に書きます。

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「慰霊塔」の説明が書かれています。「第二次世界大戦の不幸な歴史の中で亡くなられた沢山の無縁の同胞達に、昔渡来した高句麗の同胞達と共に永遠の安眠を与え供養したいと願う、在日同胞篤志家の真心により建立されました。」

そのあと出てくる名前が、半島の歴史に詳しくない木瓜爺にはチンプンカンプンなので、調べます。まず名前を書き出して・・・「壇君」「広開土大王」これは高句麗の王様の一人だな、「太宗武烈王」あれ?これは新羅王だよ? 「鄭夢周」「王仁博士」聞いた事あるな・・「申師壬堂」。

「壇君」というのは「檀国の君主」ということで、伝説上の古朝鮮の王様だそうです。日本で云うと「卑弥呼」とか「神武天皇」あたりでしょうか? 「広開土大王」は木瓜爺の想像が合っていたようで、「高句麗」の十九代目の王様(391-412年)、「高談徳」という名前だそうです。「太宗武烈王」この方は「新羅による統一」の基礎を築いたといわれている「新羅の王様」(602-661年)です。

「鄭夢周(てい むしゅう)」(1337-1392年)は、日本にも関係のある人ですが、チョイ待ち・・・「高麗末の儒学者で、号は圃隠。 慶尚北道の生まれ。朱子学を学び、高麗末の内憂外患の中、軍人の李成桂(のちの李氏朝鮮王朝太祖)らとともに女真や倭寇(前期)の征伐に参加し、功績を立てる。1377年には日本に赴き、室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)と折衝にあたる。倭寇禁圧を約束させ、高麗人の解放を果たしたが、その人物と詩文が日本人の尊敬を集めたといわれている。」だそうです。ここで出てきた「高麗」は「高句麗」ではなく、ずっと後に生まれた国です。

「王仁博士」これは「百済」の人ですよ・・四世紀の末あたり・・「論語10巻・千字文1巻を携え渡来し、日本国に漢字と儒教を伝えたと記され、古代より学問の祖として崇められてきた。枚方市内にこの王仁博士の墓と伝わる場所が存在する。」

「申師壬堂」これは木瓜爺全く知識がありません。ネット上で、韓国系の解説情報らしき物を見つけました。ハングルが読めないのですが漢字の部分だけ拾うと・・・ははあ、「韓国孟母」だそうです。「傳說中李珥的母親」という文字がありました。この『李珥(り・じ、イ・イ、1536年 – 1584年)は、李氏朝鮮の儒学者。号は栗谷(りっこく、ユルゴク)、字は叔献(しゅくけん、スコン)。大韓民国では『東方の聖人』と呼ばれている。朱子学者として李滉(退渓)とならぶ二大儒と称される。』なのだそうです。

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これが「慰霊塔」です。そして、下の建物が「八角亭」。1919年3月1日、「朝鮮国」が日本からの「独立宣言」をした場所を模した物だそうです。

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この独立宣言は、いささか怪しげなもので、宗教指導者の扇動とも云われています。あまり記念的な意味がないに思えるものです。暴動を伴っていて、日本人(警官など)が数名殺されていますが、裁判で有罪になった人がいなかったということを、これを造らせた「篤志家」が誇りに思ったのかも知れません。

調べるのに時間がかかった「偉人達」ですが・・・こんな風に並んでいます。

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横から見た所です。人選は、朝鮮半島全体から選んだ感じですから、どこの出身者にも平等なのでしょう。そうそう、慰霊塔の左右にあったものを・・・

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なんというのか分かりませんが、「羊」というのが特別な意味があるようです。「羊飼い(仙人)と羊」道教に関係有りそうですが、今の所木瓜爺は知識なし。そのうち分かるようになるでしょう。

そして、最後に、木瓜爺が「高麗王の執念」と云っていたことを裏書きするような看板を・・・

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この「白衣民族」の意味から調べます。日本でも、693年頃、身分制度と着衣の色をドッキングした制度が出来ています。百姓は黄色、奴隷はなんだったか?

「朝鮮人は自らを「白衣民族」と呼ぶ。白色の衣服を好んで身に着ける民族である。白色は潔白、純粋、平和を表す。中国の漢時代の史書「三国史」は古代朝鮮の扶余国について「衣服は常に白色なり」と書いており、時代が下って書かれた「随書」も「新羅の服飾は久しくこれ素朴なり」と書いている。高麗時代に使臣として朝鮮に派遣された中国人・徐兢は「高麗図経」でつぎのように言っている。「臣は三韓の人々が衣服を染色して着るのをいまだ聞かず」 ということで、儒学の影響らしく、民族全体の文化なのですね。これほどの民族が、なぜ3国に分かれて争ったり、現代に至っても南北に分かれて居るのか、不思議な気がします。人々の「我欲」が災いするのでしょう。

それは良いとして、先ほどの看板です。「韓国風水学」によって、若光がこの地を聖地に選んだ・・この篤志家はあまり日本の歴史を学んだ方ではないらしい・・しかし、ここに「若光」さんの怨念が実ったのですよ。日本のど真ん中を白衣民族の無縁墓地が占領できたのです。でも、日本人には反感を持たれますね。 白衣民族は白衣民族であってほしいと願う次第。・・・慰霊塔に敬礼!

行かれる日本人の皆さんは「コマ・ランド」だということを忘れないで下さい。おとぎの国に出来た「高麗国」なのだと思ってください。これを根に持ってヘイト(憎悪)行動に出たりしないように。そういう傾向のある方は、慰霊塔方面には行かないことです。

本来「高麗国」は、我々日本文化の先達だったのです。「蛇氏(くちなわし) 汝も高麗の 遺臣かや」 拝観券の裏に印刷されていた高浜虚子の句です。この心境で、見守りましょうか・・・

気分直しに、下界を眺めましょう。「新本堂」真下に見える場所からです。

m18-29-39 F8632上の見晴らし台から

さて、高麗撮歩も大物を片付けました。しかし、まだまだ有るのです。もう何日か、木瓜爺は彷徨います。

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