2015/12/14: ときがわ町散歩;木瓜爺撮歩88-23 瑞松山 皎圓寺 (No.2533)

「新編武蔵風土記稿」には、「皎圓寺(こうえんじ)」のある「瀬戸村」は東西五町許南北八町程、東は馬場村、南は古池村にして西は大附村 北は桃木関堀の二村に接し 民戸四十 代官支配す と記されています。大きさは馬場村と同じ程度ですが、民戸は十戸ほど多いようです。鎮守は「雷電社」、寺は修験の寺「大寶院」と禅宗の「皎圓寺」で、皎圓寺持ちの「薬師堂」があります。

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「皎圓寺」のお堂は、奧の林の方らしく、長々と道が続いています。寺領のことなどは何も書かれていないので、このあたりの土地は、旧家のものだったのでしょう。

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林が近づいて来ました。何か居られるでしょう。まず見つけたのは、小さな祠です。こm88-23-03 F1173の村には、「雷電山」「弘法山」「鷹取山」と三つの山があります。雷電山は北の方(西平の北)にもう一つありますので、こちらは「雷電神社のある山」という意味でしょう。「鷹取山」は例の「鷹狩り用」の「鷹」を保護育成(?)しておく山ですね。この祠は「山神社」かなあ? よく分かりません。 すぐに、地蔵堂の前に出ました。山腹に作られている「六道地蔵堂」です。「しからずに やさしくさとせ 愛のむち」と、筆談で、おっしゃっておられます。m88-23-04 F1174

道を挟んで、右側にも地蔵様が居られました。m88-23-05 F1178

「新編武蔵風土記稿」の「皎圓寺」を見ましょう。

『皎圓寺 禅宗臨済派 郡中 平村霊山院末 瑞松山と号す 開山は本寺の二世良空宗徹 正嘉二年寂す 本尊釈迦を安置す』 あとで、ちょっと解説します。

観音様も居られました。真ん中は「庚申塔」のようですね。

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やっと、堂宇が見えて来ました。それで、先ほどの話のつづきです。

親寺に相当する「平村の霊山院」というお寺は「都幾山慈光寺」の塔頭、山の中にありましたね。あそこで頂いて来た「背筋をぴーんと伸ばしてごらん。 天地がぴーんと伸びるんですよ。」という書が、木瓜爺の部屋に貼ってあります。Choi-Boke爺ちゃんのブログで、書いております。

11月24日:都幾川フォトウォーク(5) 霊山院 往復

面白いのは、「都幾山慈光寺」は「天台宗」のお寺なのですが、「霊山院」は「臨済宗」、不思議でしょう? 「霊山院」は「東国最古の禅寺」と云われ、建久8年(1197)に慈光寺の塔頭として創建す、です。なお、「霊山院の開山は臨済宗開祖の栄西禅師の高弟・栄朝禅師」、「皎圓寺」は、「霊山院二世住職の開山」、と言うのですから、正嘉二年寂というと、1258年以前に「皎圓寺」は建てられたということになります。

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「歌碑」らしきものが有りました。「蝶別れ 一つは山に入りしか」 ウーン、意味深。男と女の別れを思わせますが、死別なのか生き別れなのか・・山に入るというのは「出家した」という意味にもとれます。m88-23-09 F1184

見えている真ん中の建物が本堂で、右は庫裡のようです。まだ見えていませんが、左の奧に「観音堂」と「薬師堂」が有りました。「観音堂」の後ろは墓地になっていました。

m88-23-10 F1187薬師堂

これが、「薬師堂」です。風土記稿では『薬師堂 皎圓寺持』と、そっけないです。

m88-23-11 F1191観音堂よく似たお堂ですが、屋根のてっぺんが少し違いますね。こちらは、中が見えました。

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中央に金属仏らしき色の観音様、両側にお顔が見えないのですが、やや小形の木像らしき観音様が祀られておりました。特別な表示はありませんが、ここは「入比観音霊場3番 瑞松山 皎圓寺:埼玉県比企郡ときがわ町瀬戸元上 60」になっているようです。

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境内の一画、壇が築かれています。何かなあと眺めていたのですが、「無縁墓」をこちらに集めるおつもりか? そんな感じです。本堂にもお参りしなければいけない・・本尊は昔のままで、「お釈迦様」で良いのでしょうね。と言うことにして、「合掌一礼」。念のため、ネット検索。そうしましたら、こんな情報が出て来ました。

『皎圓寺は、「源義賢」の菩提寺です。源義賢は、「木曾の義仲」の父君です。
源義賢は、近衛天皇が東宮(皇太子)であった頃、これに仕え、帯刀の長となり、「帯刀先生」と呼ばれました。その後、東国に下り、上野国多胡を領した後、武蔵野国比企郡大蔵(現在の嵐山町)に館をかまえますが、久寿二年(西暦1155年)八月十六日、甥の源義平に討たれました。この時、義仲は、斎藤別当実盛によって木曾に逃されています。荻窪家の先祖は、この源義賢の家臣でした。その一族には、義仲の乳母をつとめた女性がいました。荻窪家の裏山には、今でもその乳母を祭った「乳母神社」があり、荻窪家の前を流れる沢は、「うばさわ」と呼ばれています。
仁治二年(西暦1242年)、荻窪家の先祖は主君「源義賢」の菩提を弔い、また人々の信仰の拠りどころとして皎圓寺を建立しますが、この時には、木曾の義仲もすでに他界していますから、心情としては、源義賢、義仲親子の菩提を弔ったものでしょう。』

そう言えば、「新編武蔵風土記稿」の中に、「萩久保 丈右衛門」という旧家のことが書かれていました。この「萩窪家」の子孫に当たる人ですね。

m88-23-15 F1200なお、山の中腹に、「乳母神社」があり、「萩窪舘」(ただし、現代建築)もあったと、探索なさったブログも拝見しました。

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さて、次に進みましょうか。「雷電神社」を探します。

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