2015/12/27: 江戸の古社;木瓜爺撮歩77-08 富岡八幡神社〔1〕 (No.2546)

初詣をどこに行こうかと、正月に「検索」される人のお役に立つかなあ? などと思いながら「江戸の古社」撮歩を書いております。今日の「富岡八幡社」は「深川八幡」とも呼ばれます。直ぐ近くに「深川不動」(成田山の別院)も有りますので、神と仏の療法に新年のご挨拶が出来る場所です。それだけ混み合う場所でもあります。

木瓜爺の家からですと、かなり時間はかかりますが、東京直通の特快に乗って「中野」まで行き、メトロの東西線に乗り換えて「門前仲町」下車。つまり、乗り換え一回で着く(こともある)ので、割合近く感じられる場所なのです。

「門前仲町」という地名も、この「富岡八幡」の門前に出来た町を表しているようです。最初に、八幡様が勧請された時は、「永代島」という隅田川(浅草川)河口の島だったようです。「新編武蔵風土記稿」にある「元禄年中改定図」では、「深川町」と水路を隔てた「深川漁師町」横、「砂村新田」の海岸線に鳥居と「八幡」という文字が書かれています。おそらく、この水路を隔てた先が「永代島」と呼ばれた「州」だったのでしょう。「越中島」「佃島」などもそうなのですが、「永代島」も周囲に「江戸のゴミ」などがどんどん運ばれて、埋め立て地に変わって行ったのでしょう。それで、海岸にあった「富岡八幡社」も、内陸の「深川町」の方に移転したようです。「砂村新m77-08-00 F1565田」の神社跡は「元八幡」と呼ばれるようになっていたことが、「新編武蔵風土記稿」に書かれています。前置きはこのくらいにして、2015/12/18の撮歩開始です。割合穏やかな好天気でした。堰下橋から北をみた風景。真ん中の△ピークが秩父の「武甲山」です。この日は、木瓜爺朝から町内を一回り、老人クラブの広報ビラを配ってきました。これだけで、2500歩程歩きます。深川地域は10000歩m77-08-01 F1569羽村稲荷神社くらいの予定にしておかないと、スタミナ切れのボケ発生になりそうです。要注意。

おや?見慣れない鳥居です。これかあ!先日、「稲荷神社」の総代さんが「資金が出来たから、神社に新しい鳥居を建てる」と云っていました。この「稲荷神社」、春のお祭りだけは「八雲神社」になるのですが、南側だけにしか鳥居がなかったので、北側の参道にも鳥居を造ったわけです。

羽村駅で予定どおり、東京行きの特快に乗りました。しばらくは立ちん坊。立川で漸く腰を下ろす事ができました。2500歩+立ちんぼ-座席=居眠り とろとろしていm77-08-02 F1572て、あ?中野だ! あわてて飛び起き下車したら、なんだよ、まだ三鷹じゃないか・・寝ぼけております。まあいいや、次の快速で中野まで行って、東西線へ。10分ほどロスしましたが、なんとか「門前仲町」に着きました。こういう表示が危険なのです。頭の中で「深川八幡」→「深川不動尊」のすり替えが行われるのです。同じ方向だったな? 大丈夫だな? 確認の上前進です。

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出た所は「永代通り」太陽があっちだから・・・このみちは、左が東で右が西だな・・・地図が有りました。あれ? 何だか変だけど? 此の地図、南が上に書かれています(通常の地図は上が北です)。まあいいか、とにかく左に進んで、左折するのだ。太陽が南にいないかも知れないので、念のために、腕のコンパスで方角確認。大丈夫なようです。太陽まで呆けると思っています。m77-08-04 F1576

この門前仲町、江戸古地図で見ると、主要な道路の部分が、みんな水路に描かれています。つまり、水路を暗渠にして上に道路を造っていったようです。「深川不動尊」など、周辺水路に囲まれ、島になっていた場所です。

m77-08-05 F1578富岡八幡

m77-08-6 F1580「富岡八幡宮」前にやってきました。大きな灯籠がおかれています。この神社、境内にいろいろな物があることで有名です。ゆっくり楽しみましょう。境内社も多いのですが、二箇所に固めて祀っているようです。全部書くとブログ三日分くらいになりそうな感じです。m77-08-07 F1581

この店は何だろう?「もんじゃ」屋? 「もんじゃ焼き」というのは、「文字焼き」から出た言葉だと聞いたことがあるのですが・・今日はお休みのようです。

m77-08-08 F1582伊能忠敬 おお、「伊能忠敬」がいました。「四千万歩の男」です。木瓜爺の歩数計は、現在1250万歩、とても追いつけません。しかも歩幅が違いますねえ・・。彼は「黒江町」(現在の門前仲町2丁目)に住んでいた隠居です。蝦夷行きの第一回から第八回(美濃から飛騨)まで、出発に際して必ずこの「富岡八幡宮」にお参りしているのです。

向かい側には、「大関力士の碑」、有名な「横綱の碑」は明日になりそうですが、社殿の右奥の方にあります。ここは「相撲」と縁の深い場所でもあります。「両国」も近いですからね。「巨人力士身長碑」というのも立っています。「大関釈迦嶽」という226cmの等身碑が凄いですね。背伸びしても頭を撫でられない!

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次に目に入ったのは、左の方にあった「御輿庫」です。ガラス張りになっていたので、中を覗いたのですが・・・「大御輿」です。「高さ十四尺五寸、重量4.5トン」誰が担ぐのだ?「ダイヤモンド」が八個、ルビーも埋められているようです。四カラットのダイヤ・目の毒だ!m77-08-11 F1592

 

さーて、社殿にはなかなか行き着けません。やっと、「手水舎」が現れました。お清めをします。

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m77-08-14 F1596これがまた、曰く付きのようです。

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「江東区指定有形文化財」だそうです。説明を読むと、石の水盤を銅で包んだもののようです。1803年製。

一段高い社殿前広場に行く石段の両側に狛犬がいました。個性的な表情の一対です。

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とにかく、お参りします。そして、休憩しましょう。富岡八幡宮のHPに書かれた「由来」をコピーしておきます。『御祭神  応神天皇(誉田別命) 外8柱 沿革:富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。
また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。』

おかしいなあ? 現在地に造ったことになっていますね。「新編武蔵風土記稿」を引っ張り出して反論しておきましょう。

『砂村新田』『八幡社 村の鎮守とす 土人云 當社地は富岡八幡宮を始て勧請せし地にて 寛永の始め 今の深川の地に引移りせしより 彼旧地なれはとて 寛文五年八幡を勧請せしかは元八幡と唱へ 今は永代寺持なり されと同寺にては寛文の勧請のことのみにて、元地たりしことは傅へされと いま深川八幡の神体僧形八幡は弘法大師の作にて寛永の始めまて 郡中 立石川端等の内に鎮座ありして同十年伊奈半十郎の臣 興津角左衛門入道玄理 寄附せしよし旧記あれは 土人の説の如く 始め此地に移し祀り 後に今の深川の社地草創して再ひ移せし其旧地なるへし 社地は松樹生茂り前面は渺々たる海面にして景色殊に宜し  末社 天王 水神 辨天 道祖神 稲荷 秋葉 庵 社守り住す』 正確な位置は推定しようも有りませんが、風土記稿では「富岡八幡宮」は「砂村新田から深川町に引越した」と認めているようです。ですから、寛永四年というのは、深川に引っ越した時をスタートとしているのではないでしょうか?

境内の休憩所(トイレもあります)で一休みし、北西の角にあるらしい「冨士浅間神社」「大鳥神社」などを拝みに行きましょう。

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