2016/01/02:江戸の古社;木瓜爺撮歩77-10 赤坂・氷川神社〔1〕 しあわせ(四合)稲荷と西行稲荷 (No.2552)

木瓜爺「山王下」の交差点におります。「山王様」にお参りした後、「東京十社」に入っていた「赤坂・氷川神社」への参詣を思いついたのです。話によると、この「赤坂・氷川神社」というのは、淺野内匠頭の夫人「冷泉院」の実家があった場所に造られた神社だといいます。訪れた明確な記憶は有りませんが、場所が場所だけに境内をかすめたくらいのことはあるかもしれません。なにしろ、赤坂とは思えない林の中の神社のようです。

m77-10-01 F1981山王下

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交差点を渡ります。お巡りさんが立っていました。地図片手に、あの道を進みます。

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断面が弓形のビル、こんな斬新?なビルなのに、玄関には古風な門松が立っています。

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失礼して、ちょっと記念撮影・・青い服が木瓜爺です。

千代田線の「赤坂駅」を過ぎたあたりで、左に入ろうか・・・この辺歩いた事あるな・・あれ? 見知らぬ場所に来てしまっm77-10-04 F1990た? まあ方角としてはこっちの方だ・・・なんて、頼りなく歩いてゆくと、「転坂」の道標。「ころびざか 江戸時代から道が悪く通行する人たちがよく転んだからだ」いやな道だねえ・・・m77-10-05 F1993

 

 

 

 

 

ぶつぶつ言っているうちに、氷川神社の東北口に来たようです。あたりがちょと暗くなってきているのに、ISO100のままにしていたもので、手ぶれしています。あとで、お稲荷さんに注意されるまで、気が付きませんでした。

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「徳川吉宗の将軍就任から300年なので、社務所の新築をしたいから、寄附してください」の看板ですね。えーと、氷川神社と吉宗の関係は・・・『赤坂氷川神社は、創建年代は不詳ながら、古呂故ヵ岡(赤坂小学校台地)に天暦5年(951)創建したといいます。徳川吉宗が将軍に就くにあたり、当社が紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神であった縁から、享保14年(1729)当地に遷座、社領200石の御朱印状を拝領したといいます。』 なお、「赤坂氷川神社」という呼び方をするのは、割合近い位置にある「白金(しろがね)氷川神社」との区別だそうです。「白金(しろがね)」というのはプラチナではなくて、「銀」のことです。昔、銀で設けたお大尽が住んでいたとか・・たんかを切るときの「芝は白金三光町」という台詞は、何で覚えたのかなあ? 金よりも銀の価値が高かった時代があるのですね。それにつけ込まれて、江戸末期、日本の金が海外流失してしまったのでした。

参道を入って行くと、狛犬がいましたが、・・・m77-10-07 F2003向かって左の阿君は良いのですが・・向かって右の「吽」君は、「イテッ!」m77-10-07 F2002

 

 

 

 

 

可哀相に古木に頭をぶつけていました。木瓜爺も一時「視野狭窄」の現象が出て、木の枝に頭をぶつけて困ったことがありますが、「あんたも年取ったの?」 木瓜爺の症状を治してくれたのは、多摩川のカワセミです。カワセミ探しで目玉をくるくる動かしていたら、回復しました。

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正面は「氷川神社」の二の鳥居なのですが、ここ右側に、お稲荷さんがおられるのでm77-10-12 F2008す。先にそれにお参りして行きます。おっと、左側のほうに、橋が架かっていました。昔、庭園だった場所の名残かもしれまm77-10-13 F2009せん。で、右側の最初の神社です。これが、なかなか洒落た名前なのです。「四合稲荷」と書いて、「しあわせ稲荷」です。祭神は「宇迦之御魂神(注:倉稲御魂と同じ)」です。説明板がありました。『四合稲荷神社
1.古呂故稲荷(赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
2.地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
3.本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
4.玉川稲荷(赤坂門外の御城端、源弁慶橋のあたりに鎮座)
以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により「四合(しあわせ)稲荷」と称えられる。
大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後城下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
附記:古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川神社御旅所)に祀られていた稲荷神社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のち四合稲荷に合祀された。
玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。』

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この洒落た名前の命名者は「勝海舟」。さすがですね・・・現在は「六合」になっています・・・なんとなく嬉しくなってお参りしました。

m77-10-14 F2011しあわせ稲荷

此の横に、もう一つお稲荷さんがあります。「西行稲荷」という額がかかっていますが、「西行法師」には関係なし、「西行五兵衛」と言う方の名前から来ています。

m77-10-16 F2016西行稲荷

『文政(1816-1830)年間 町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で、本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝がありました。勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)田町五丁目に西行五兵衛という異名を持つ男あり、榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像を拾いとったが、稲荷の御神体らしいと云うので、これを勧請し、五兵衛の異名を以て、西行稲荷と唱えられました。 明治以降、町の発展に伴い、大正十年(1921)九月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。』という説明がついていました。正一位ですから「伏見系」とみましょう。m77-10-17 F2018

 

 

この稲荷が、面白い。下の方に、これは「袋」を背負って居るみたいだから「大黑様」かな? 左下に「穴稲荷」がありまして、上の方に「西行稲荷本殿」があるようです。

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上に行こうと思ったら、脇に使い狐の残骸らしき石がありました。階段を上って行くと・・・こちらも、お正月の支度が調っておりました。その作業をなさっていたご婦人と、ほんの少しお話をしまして・・・木瓜爺、いよいよ「氷川神社」に入ります。

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m77-10-19 F2024おっと、「穴稲荷」の部分を忘れました。ここは、狐の像が沢山はいっていますので、きっと願掛けなどは、こちらに納めるようになっているのでしょう。

「赤坂氷川神社」は、「狛犬」が沢山下りました。明日並べますが、有った場所を半分忘れておりますので、説明があやふやになる場合もあるでしょう。何しろ、記憶力がどんどん低下しております・・メモ帳を持ち歩いているのですが、書くのを忘れるのですから、どうしょうもない!

ブログ書きのおかげで、今日が何日かは分かるようです。書かないと日付も忘れるかもしれません。とほほ・・・

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