2016/01/08: 深川散歩;木瓜爺撮歩68-19 法苑山 浄心寺 (No.2558)

「法苑山(ほうえんざん)浄心寺」は、日蓮宗の「江戸十祖師」・・江戸の町にある日蓮宗の十寺をお参りするツアー?・・の中の随一と云われるほど立派なお寺だったようです。この随一という評価は、身延山の江戸開帳の場所だったためと考えられるそうです。

m68-19-01 F1836浄心寺

参道を入って来た木瓜爺ですが、墓地の入口を通過してます。寺の正門になるところは、もう少し南の方の道にあります。木瓜爺は本堂の前を横切る参道を歩いて来たようです。墓地の入口横にはお堂があります。「猫の足あと」さんの頁でみると、「浄心寺観音」と呼ばれるようです。でも、お地蔵様が立っておられるように見えますね?何だか変だな? 真ん中の像は、僧形で、台座には「有縁無縁供養塔」と書かれています。左に見える石仏は、手前が観音様で、奧が地蔵尊です。右に見えるのが観音様。2:2ですねえ? でも大きいのは「地蔵菩薩」のようですから、木瓜爺は「地蔵堂」ということにしておきます。昔は「観音像」の方が多かったのかもしれません。

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大きな「無縁供養塔」も立っています。その右に見えるのが本堂のようです。

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此の寺の詳細は、「古今御朱印研究室」というサイトの記述が詳しく、分かりやすかったので、ダイジェストして使用させていただきましょう。若干解説を挟みます。

m68-19-05 F1841『本尊:三宝尊、祖師像、除災祖師。創建年代:万治元年(1658)。開山:通遠院日義上人。 開基:浄心院殿妙秀日求大姉(三澤の局)。宗派:日蓮宗。所在地:東京都江東区平野二丁目4-25』 「三宝尊」という本尊は、日蓮宗特有のものですが、「仏・法・僧」の三宝を表す何かで、いろいろな形があるようです。「祖師像」は「日蓮像」です。「除災祖師」というのは「厄除け専門の日蓮さん?」よく分かりません。

m68-19-06 F1843開山者と開基者のいきさつについては、こう記述されていました。『開基の浄心院殿妙秀日求大姉は小堀遠州の側室で四代将軍徳川家綱の乳母となった三澤の局。ある時、上総国の小西檀林で修行していた日義上人が、夏安居で深川の草庵にこもり一心不乱の読経。その姿に感銘を受けた三澤の局が帰依し、外護するようになったという。三澤の局は明暦2年(1656)没するが、日義上人に寺院を建立するよう言い残す。しかし上人も病に罹り、学友の覚性院日通上人を小西檀林より呼び寄せて新寺建立を託し、翌3年(1657)遷化した。日通上人は万治元年(1658)、日義上人を開山、三澤の局を開基として浄心寺を開き、自らは二世となった。また、徳川家綱は三澤の局の菩提を弔うために境内地1万坪と徳川秀忠の姫君の住居・玄関・門等及び500両を寄進、さらに寛文5年(1665)には朱印地100石を寄進したという。』

「夏安吾」というのは、僧が夏に托鉢などの外出をやめ、一箇所に籠もって修業することです。古今御朱印研究室さんは「夏休み」と考えたようですが、意味がちょっと違いますので、記述を変えておきました。境内に「和合稲荷社」というのがあります。この説明は、「法苑山浄心寺縁起」に書かれているそうで、「猫の足あと」さんから拝借します。

m68-19-07 F1845和合稲荷

『大奥入りしたとき、大奥女中の意志和合を祈って伊勢外宮の豊受大明神を奉祀して、和合稲荷とし毎朝夕にお題目を唱えていた三沢局のために家綱は、浄心寺境内に和合稲荷を建てたという(「法苑山浄心寺縁起」)。』

伊勢外宮からの勧請だという事ですね。「額」に「最上位」と書かれているのは、「正一位」より上だぞ! と、いばった?わけですね。木瓜爺は、「豊受大明神」を稲荷扱いするのは、お伊勢参りの所為かと思っていましたが、「大奥」にその発端があったのかもしれませんね。

三沢の局の生まれはどこだっけ?・・『三沢為毗娘。茶人大名として名高い小堀遠州(政一)の側室となり、寛永18年(1641年)に五男・政貞を出産した。同年、徳川家光に嫡男・家綱(幼名・竹千代)が生まれたことから、春日局の推挙によって家綱の乳母として召し出された。三沢氏は清和源氏頼光流土岐氏流。紋は、八重桔梗、丸に八重桔梗。三沢局の兄は、三沢惣左衛門(500俵、寄合)。継嗣の信光は庄兵衛を称している。』 経歴的には、伊勢の外宮と直接的な結びつきは感じませんね。

m68-19-08 F1849話を戻します。「和合稲荷社」の前に鐘楼がありました。

『明治に至るまで、浄心寺の広大な境内には8つの塔頭(深川七福神の大黒天・円珠院もその一つ)をはじめ、本堂・祖師堂・七面堂など数多くの堂宇が建ち並んでいたという。しかし、大正12年(1923)の関東大震災と昭和20年(1945)の東京大空襲により、明治5年(1872)建立の水屋と同40年(1907)完成の祖師堂内陣(鉄筋コンクリート造)以外はすべて焼失した。
戦後、昭和33年(1958)に本堂、同44年(1969)に祖師堂が再建されているが、復興は充分とは言えず、昔の繁栄の面影は広大な境内に見るばかりである。かつて建ち並んでいたという多くの堂宇がなくなっているぶん、ガランとした印象を受ける。』と、「古今御朱印研究室」は結んでおられます。その「ガラン」風景です。

m68-19-09 F1852浄心寺

m68-19-10 F1853木瓜爺は正門から退出します。

門前仲町に戻る途中で見つけたものも、アップしておきましょうか・・m68-19-11 F1859

 

「常夜燈」がありました。奧に石祠が置かれていますね。曰くのある場所なのでしょうが、説明板的なものは見つかりませんでした。

m68-19-12 F1860宣明院

右は「宣明院」、参道入口に名前がありましたね。やはり「日蓮宗」『宣明院:開山は宣明院日善上人、創立は延享二年(1745)である。上行堂があり、宝永五年(1708)に久世源広誉が石像上行菩薩を寄進したという(「小西法縁名鑑」)。
宣明院境内の上行菩薩は法華経を末法悪世にひろめる使命を託された四菩薩の一つで、衆生の苦痛を癒す誓願をもち、この像は特に霊験あらたかで、病苦に悩む人がお題目を唱えて、尊像の患部をたわしで洗い祈願をすると苦痛がやわらぎ、毎日参詣を続けることによって全快すると信じられているという。震災、戦災で大損傷を受けたが、戦後修復された(上行堂内の縁起)。(江東区の民俗深川編より)』 「上行堂」というのは、この右の方にある建物に表示されていました。「木更木橋」まで戻って来ました。この橋にあった「材木問屋」の絵を最後に、深川散歩を一旦終了しましょう。長いことおつきあいいただき、ありがとうございました。

m68-19-14 F1866

明日からは、白山神社~根津神社の散策で、寄らしていただいたお寺を紹介の予定です。

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