2016/01/10: 文京区散歩;木瓜爺撮歩25-04 大雄山 最乗寺 東京別院 (No.2560)

PCで打ち出した地図をみると、「妙清寺」の裏というか真東に「最乗寺東京別院」と書かれていました。それで、白山上の交差点の北から左折し、次の十字路を南に入りまm25-04- 00した。北側に行くと、江戸時代からある「蓮久寺」があります。そこは後回しにして、気に成る「大雄山」を先にしたのです。「大雄山最乗寺」というのは、丹沢の山を歩いた時、寄ろうかどうしようかと迷ったお寺なのです。ここは、曹洞宗の名刹の一つと云われています。そちらが「本院」で、こちらが「東京別院」という事なのだろうと推察はできました。

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新しい建物です。略縁起が看板(下の写真)になっていました。『最乗寺(さいじょうじ)大雄山・東京別院・曹洞宗系 文京区白山5−32−11略縁起:大雄山東京別院は明治十五年に、東京在住のご信者の参詣利便のために、小田原の道了尊を本郷追分の地に勧請し、昭和五十三年秋に現在地に新たに堂宇を建立した。本院は神奈川県南南足柄市大雄町に在る大雄山最乗寺であります。開山六百年に及ぶ大寺で曹洞宗に属し、開山了庵慧明禅師の門流は全国四千余ヶ寺を数える古刹であります。常に鎮護道了大薩捶の祈祷を修し人々の諸願成就を祈念する霊場であります。当別当も宗派を問わず参詣自由また、葬儀斎場としての使用も出来ます。』

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昭和53年(1978)建立ですから、新しいと感じたのも当然ですが、それでも35年余。うーん・・・何をうなっているかというと、自分の年を計算していたのです。その頃は何をしていたっけな? です。

ついでですから、本院の方の縁起も、本院のホームページからコピーしておきましょう。『大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4千余りの門流をもつ寺である。
御本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、脇侍仏(わきじぶつ)として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏(こくどあんのん)万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。開創以来6百年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ。』

『開山了庵慧明禅師(りょうあんえみょうぜんじ)は、相模国大住郡糟谷(さがみのくにおおすみごおりかすや)の庄(現在伊勢原市)に生まれ藤原姓である。長じて地頭の職に在ったが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉不聞禅師(ふもんぜんじ)に就いて出家、能登總持寺(そうじじ)の峨山禅師(がさんぜんじ)に参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺通幻禅師(ようたくじつうげんぜんじ)の大法を相続した。(中略)、大本山總持寺に輪住する。50才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に竺圡庵(ちくどあん)を結んだ。そのある日、1羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じた。その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号した。應永元年(1394年)3月10日のことである。』

此の記述で、間違えないでいただきたいのは、「大本山総持寺」・・これは鶴見の総持寺ではなく、石川県輪島市門前町の「総持寺祖院」(能登総持寺)です。念のため書きますと、鶴見の総持寺を大本山として建立したのは、明治31年能登総持寺が火災で全焼してしまったので、時の貫首「石川素堂」禅師が大英断で総持寺の横浜移転を決定されたのです。正確には記憶していないのですが明治34年頃の完成ではなかったか? 話をもどして、なぜ、同じ寺を別の表現で記述したのか?・・・「輪住」と書かれていましたね。見過ごしていました。この「輪住」というのは、常済大師が定めた制度で、大本山「総持寺」(能登)の住職を短期定年制・・輪番にした制度なのです。つまり、それを勤めたと言う意味で「大本山 総持寺」という表現を入れられたようです。・・・納得。

m25-04- 03「常済大師(螢山禅師)」が能登の総持寺をを開創されて、しばらくは、「総持寺祖院」が営業本部? 「永平寺」が教育本部? という分担があったようですが、「永平寺」だけでは収容する人数に限りがあるので、次第に各地に分校?である「修業道場」が造られて行きます。大雄山最乗寺もそういうものの一つだったということなのでしょう。「永平寺」はその中の最高学府的ポジションになっていったようです。なお、二本山になっている根源について、大学の先生が説明されている本があるのです。そのダイジェストを読ませて頂いたのですが、「朝廷」が「第一修行道場」のお墨付きを、それぞれに出しているのですね。そのため、同格で維持せざるを得なかったということのようです。なお、初代道元から四代螢山に至るまでに、複雑な派閥争い(?)があったようです。また、勉強してみます。現在は、総持寺と永平寺、2年交代で、交互に曹洞宗貫首を立てるというような方法でバランスをとっているとのことでした。

ぐずぐず云っていないで、お参りしましょうか。本堂です。額が見えるかな? 別に写します。

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「妙覚殿」となっています。問答の前に小さなお堂が作られています。写真は露出補正を失敗してしまいました。m25-04- 06

 

 

これは、「道了尊堂」なのです。本院のHPにある説明を拝借します。『大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者(ぎょうじゃさがみぼうどうりょうそんじゃ)として世に知られる。
尊者はさきに聖護院門跡覚増法(しょうごいんもんぜきかくぞうほう)親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約1年にしてこの大事業を完遂した。その力量は1人にして5百人に及び霊験は極めて多い。應永18年3月27日、了庵禅師75才にしてご遷化。道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている。』

修験道、つまり山岳信仰や役行者の流れです。曹洞宗開祖の「道元」が「山神鬼神に帰依するなかれ」といっても、駄目なのですねえ・・・「猫の足あと」には、東京別院の境内掲示にこう書かれていると記録されています。木瓜爺は気が付きませんでした。

『道了権現 道了権現は、駒込追分町六十三番地にあり、相州足柄上郡岡本村曹洞宗大雄山最乗寺の出張所にして、明治十六年中此地に開設し、老幼の参拝に便ならしむ。表通に面し、石門(明治十六年石工酒井右衛門寄進)鐵扉(新吉原江戸町二丁目埼玉正三郎奉納)、扉に葉團扇を鋳出す、門内右に嗽石盤あり、覆屋瓦葺四趾、鐵燈籠を吊る、敷石一條、本堂に通ず堂前鐵桶両基(明治十七年五月安祥講とあり)、正面「靈通殿」の額、「道了大菩薩」の提灯、緋羅紗の幔幕、白ぬきの葉團扇、永讀元講、豊盛講、神田東西講等各講中の奉納品あり、廓を架して左の方玄關に通ず、玄關に「大本山総持寺再建勧募最乗寺事務所」と標す、境内赤樫、松、椿、躑躅を栽ゑ「樹木を折るべからず」との建札あり。』 この説明は、現況とは関係なさそうですね。いつ頃の話なのか??

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こんな所で、「蓮久寺」の方に行きましょうか。十字路まで戻り、左に行きますと、「蓮久寺」の前にでるようです。
(注記:このブログ、1/10公開後、記述の誤りに気付き、同日中に改定しております。)

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