2016/01/29: 北品川散歩;木瓜爺撮歩94-41 萬松山 東海寺 (No.2579)

「江戸の古社 荏原神社(貴布禰大明神)」を出て、目黒川をさかのぼります。逆方向m94-41-01 F2281に進むと天王州の方に行くわけです。品川の船着き場・・確か映画で「釣りバカ」の船宿は品川だったと思いますよ。それは、さておいて、先日歩いた「北品川商店街」にそったお寺の記事で、「歩行新宿」という地名が出てきたと思います。この説明が抜けていました。「歩行者天国」の親戚ではありません。これは「かち新宿」と読みます。東海道が発展して行く過程で、「かち人足」の需要がふえます。籠かきや荷物をはこぶ人足です。こういう人々を供給する場所として、「歩行新宿」というベルト地帯が発展して行きます。本来の北品川の東、つまり日本橋に近い側に出来たようです。『品川歩行新宿は北品川宿三町目の北より八ッ山の堺に至る長五町二十間余の地宿並をなせり』m94-41-02 F2282と、「新編武蔵風土記稿」に記され『古は北品川善福寺門前 法禅寺門前 及び新町と唱えし茶屋町にて 酒食のみち商い・・・』以下、町名をかえて行く経緯が書かれていました。この「茶屋町」というのは固有名詞ではなく、今の言葉でいえば「飲食街」ということでしょう。「みち商い」というのは「屋台」を並べていたと言うことか・・・

この北品川には、「遊郭」も出来ます。「吉原」のような公娼地域ではなく、私娼です。「旅籠」という看板で営業する所もありましたし、「島崎楼」という有名な遊び場もありました。落語の「居残り佐平次」はこの島崎楼を舞台にしています。などと、頭の中で脱線しながら、「第一京浜」まで出て来ました。

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所が、横断歩道がありません。山手通りとの交差点まで戻らないといけないようです。交差点まで戻って、横断。これが幸いしたのか、目の前に「そばや」が出て来ました。昔懐かしい「砂場」(大阪が起源の系列)・・社会に出て最初に勤めた工場の昼飯は、「砂場」の店から、出前をとって食べていました。不味さ(しゃれです)が懐かしい。若い頃は空腹を満たすことが第一でしたからね。味など良く覚えていません。ただ、出汁の味が同じ系統だった・・・お腹を満たして、西に進みます。東海寺の参道入口がある筈なのですが・・・この辺の筈だが? と思ったところにこんな物が出来て居ました。

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「史跡巡り広場」だそうです。右の参道は工事中で入れません。この広場の方から入れるのかな?m94-41-05 F2290

パネルが幾つも並んでいて、品川の名所が案内されています。一番奥まで入って行くと・・・・「品川観光ギャラリー」と、書かれているのでm94-41-06 F2295すが・・・、よく分かりません。この展示している場所のことを入っているのでしょうか?「品川」のギャラリーというとキャノン・ギャラリーや、品川区民ギャラリーというのがありますが、場所が全然違います。

詮索することは止めて、東海寺に行く道を探します。山門が見えているのです。

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でも、間に金網フェンスが出来て居て通行出来ません。

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「萬松山」の額がかかっていますから、間違いないはず。入れないのかなあと、背伸びして・・・奧の方を見ると、境内も見えます。横から入る道がありそうです。山手通りまで戻って、西に進み、「子供の森公園」という交差点で左折します。

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m94-41-10 F2300丁度、「子供の森公園」にはトイレもありました。そのトイレの横で、「荏原郡役所跡」という掲示版を見つけました。明治~大正にかけての役所跡のようです。

そして、向かい側に「東海寺」への入口を発見して、一安心です。

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では、そろそろ「東海寺由緒」にかかりましょうか。

「東海寺」というのは、ご存じの「沢庵禅師」を「大徳寺」から招いて、建立したお寺です。江戸期を通じて栄えましたが、明治に入って廃寺の憂き目にあいます。しかし、それはあまりにもひどいと、「東海寺の塔頭」の一つであった「玄性院」が、「萬松山 東海寺」の名前を復活させたのです。ですから、ここは、元の東海寺ではありません。いくつかの部品を引きついた場所だと解釈しましょう。

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この「鐘楼」と右に見える建物「古学堂」が引き継がれた建物でしょうか? これから詳しく調べて行きましょう。まず一回り境内を歩きます。

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先ほど、金網の外から見ていた山門です。実はこの山門、DBの写真で見る山門と大幅に違っています。以前は左右に土塀がつながっていたようですが、現在はスタンドアローンになっています。多分位置も違うのでしょう。

山門の内側横に、小さな地蔵堂がありました。m94-41-17 F2313

 

中には小さな地蔵や観音様の石佛が並べられています。

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本堂と客殿でしょうか? 並んで建っています。

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足元に通行止めが横たえられていますので、遠くから「合掌」します。

『東海寺 拝領地四萬七千二百四十坪七合 添地五百八十八坪 當宿(北品川宿のこと)の西裏 南品川の地に跨れり 萬松山と号す 臨済宗京都大徳寺末 寺領五百石の御朱印を賜り・・・ 』「新編武蔵風土記稿」の記述です。以前は境内に数多くの寺があったが、「長徳寺」以外は南品川に移ったと記されています。山門に関しては、「僧門」「中門」「山門」「南門」などが書かれています。ここに記された三問はかなり大きな門のようで、『中門の内にあり 六間に四間・・・』となっています。なお、沢庵和尚墓については、『西の丘上にあり 墓石の上に一丸の天然石をのせ廻りに・・・』そこにある碑文を延々と連ねています。全部漢字なので、木瓜爺には難しすぎる・・

『鐘楼 山門に向て左にあり 二間四方 鐘銘左に載す ・・・』これまた漢字ばかりです。

『塔頭 十七院の住職皆紫衣を許され大徳寺の末に録せり  玄性院 妙解院の南隣りにあり 寛永十六年 掘田加賀守正盛創建して沢庵を開祖とし 春澤を第一世とす 初臨川院と号す 正盛の法諡に取れり後正盛の諡を玄性院と改む故に従て改むと云  鐘楼 城内にあり 天明四年再鋳の鐘をかく』

この「住職皆紫衣を許され」というのは、「紫衣(しえ)事件」と関係有りそうだな・・話せば長くなるから止めて置こう・・・1615年だったか? 東海寺以前の事件になるのかな・・・無関係ではないと思います。「紫衣」というのは高位の僧に許された衣の色、これは朝廷の管轄でした。幕府の見解とは違う部分なのです。

ながながと、「新編武蔵風土記稿」を引用しましたが、例えば「鐘楼」が東海寺のものか、玄性院のものか、分かるのではないか? というような事を考えております。

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m94-41-20 F2316あるDBには「世尊殿」とかいてあるのですが、額の文字は、云われてみれば、たしかに、「世」ではなくて「卋」の字のくずし、「尊」もこういう崩し方しますね。 世尊というのはお釈迦様のことなので、「釈迦如来」を祀ったお堂なのでしょう。「釈迦堂」と呼ばれることも多いように思います。

「猫の足あと」の記述はどうなっていたっけ?「品川区 教育委員会」の記述を引用しておられますね。『東海寺は寛永15年(1638)に三代将軍徳川家光の信任をうけていた沢庵禅師のために、建立されたものである。
本鐘は元禄5年(1692)住持天倫宗忽が撰文し、名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたものである。総高198cm、口径106cm、撞座は竜頭の側面方向に2ヶ所、乳は乳の間ごとに縦横5箇ずつ配列されている。』此の鐘は元禄5(1638)年だと書いていますから、天明5(1785)年より古い・・つまり、玄性院のものではなく、東海寺にあった鐘らしいです。

ということで、ゆっくり見て回ると他にも何か発見がありそうですが、そろそろ失礼しましょう。なお、沢庵禅師のお墓は「東海寺 大山墓地」と呼ばれるところ、現在地から500m位西でしょうか? 「北品川4−11−8」に今もあり、国指定の文化財? になっています。

次は、やはり「東海寺」の塔頭だったらしい「清光院」に行って見ましょう。川向こうです。

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