2016/01/30:南品川散歩;木瓜爺撮歩94-42 禅宗清光院 (No.2580)

m94-42-01 F2325「東海寺」を出て、目黒川を渡ります。「要津橋」と書かれていいますが、「ようじん」と読むようです。この橋から、東海寺を眺めると、面白い。

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目黒川では鴨が食事中?m94-42-04 F2329

これから行こうとしている「清光院」は、臨済宗大徳寺派。もと東海寺の塔頭として慶安3年(1650年)に創建されています。「新編武蔵風土記稿」では、『清光院 琳光院の北隣なり 境内に雲林院殿の御墳墓あり 雲林院殿は奥平大膳太夫家昌の女 慶長十五年六月十三日大猷院殿の御養女となり堀尾山城守忠晴に嫁し封除の後 家に帰り慶安三年閏十月二十六日逝去 当院は奥平大膳太夫 永井飛騨守 細川和泉守 及 織田氏 菩提所なり 織田信長 細川三齋の画像を什宝とす 皆其家々により納めし物なり』とあります。江戸時代から「墓所」という役割を果たしていた塔頭のようです。また、鐘楼があると書かれていますが、どうなっているでしょうね。

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門前に来ましたが、横断歩道は、もう少し先のようです。歩道を探そうと目を右にむけると・・赤い幟が見えました。あれ? お稲荷さんかな?

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m94-42-07 F2335小野稲荷

 

 

「小野稲荷大明神」「正一位」と書かれていますので「伏見稲荷系」です。周りに鉄格m94-42-08 F2336子?がありまして、外からお辞儀出来る程度です。ユーチューブに動画がありましたが、御神体は鏡がおかれていました。由来などは分かりません。ここは南品川4-1-18だそうです。ここにも、かなり大きな銀杏がありました。品川のお稲荷さんは、銀杏がお好きなようです。冬の保存食に銀杏集めておくのかな?  車来ないから、横断しました。m94-42-09 F2339

案内板を見ながら、「清光院」に入ります。山門を入って右にあると書かれていた鐘楼はありません。きっと山門自体が、江戸時代とは位置が違うのでしょうね。というのは、この参道は横から本堂の前に出て行きます。本堂の手前に、庫裡なのか客殿なのか建物がありました。

m94-42-10 F2340清光院

本堂の前あたりに屋根だけの堂がありますが、何かの供養の際に使う物でしょうか? 例えば花祭りに「お釈迦様」が出店を出されるとか?

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本堂とおぼしき所に立ちまして、「合掌一礼」・・頭を上げて、おや? この額は!

m94-42-12 F2342沢庵書額

「枯木倚寒巖」「沢庵叟」これ「沢庵禅師」の書?「叟」というのは「おきな(翁)」と同じような意味です。「枯れ木が寒いと巌に寄っかかっている?」。「倚」という字は、椅子に座るようなとき使う文字ですね。正しい意味は分かりませんが、何となく光景が浮かびます。本物かレプリカか分かりませんが、珍しいものを見せて頂きました。

権力に抵抗し続けた沢庵さんも年老いて、「枯れ木になったら、寒い巖(幕府)に腰掛けてしまっている」と自分の生活を嘆いたのかもしれません。こうなると、昨日省略した「紫衣事件」のことを書いておく必要がありそうです。ウイキペディアをご存じのかたは、検索してすぐ分かると思いますが、実に分かりやすく書けていました。それをダイジェストするので、分かりにくくなるかも知れません。

『江戸幕府が成立し、寺院法度などによる締め付けが厳しくなり、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を江戸幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。』 昨日書いたように、朝廷管轄だった部分を幕府が取り上げたのです。時の将軍は二代目秀忠、江戸幕府の権力確立に必死でした。

寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、幕府の定めた法度違反で勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反発した 元大徳寺住職(三日間だけ住職をしますが、名刹はいやだと堺のお寺に戻ってしまっていました)の沢庵は京に上り、玉室宗珀、江月宗玩と共に大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行い、寛永5年、抗弁書を書き上げて幕府に提出。この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われ、その問責のため、寛永6年(1629年)、江戸へ召喚されることとなった。江戸城内での弁論の結果、同年7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を出羽国上山に、他の責任者達も陸奥や津軽に流罪。』 57才の沢庵は「紫衣事件」の首謀者の一人として流罪になってしまいました。『配流先、上山藩主の土岐頼行は、沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇した。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれている。配流中、頼行は藩政への助言を仰ぐなど沢庵を遇すること実の祖父の如くといい、沢庵赦免後も二人の交流は続いたという。』 やがて、家光が将軍になり、暫くして、大御所秀忠が死にます。このあと、沢庵の運命が変わって来ます。

『寛永9年(1632年)、沢庵60歳の年に、大御所・徳川秀忠の死よる大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された]。 沢庵もいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。そして玉室と共に大徳寺に戻った時、将軍・徳川家光の上洛に際し、天海、堀直寄、柳生宗矩の強い勧めにより、沢庵は家光に拝謁した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという。同年、郷里出石に戻ったが、翌寛永12年(1635年)、幕命により再び江戸に下った。その後、寛永13年(1636年)に玉室、江月らと共に家光に拝謁したところ、二人は帰されたが、沢庵のみ江戸に留まるよう求められ、家光に近侍することとなった。』 64才で、家光に見込まれたのです。そして、東海寺の建立に進みました。

『江戸においては、柳生宗矩の下屋敷(「検束庵」)に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説いた。度々上方へ戻ったが、寛永15年(1638年)には後水尾上皇に「原人論」の講義などを行った際、上皇より国師号授与の内示があったが、沢庵はこれを断り、代わりに大徳寺一世・徹翁義亨へ追諡を願っている。また同時期に柳生宗矩の頼みを受け、大和国柳生庄に赴き、後に柳生家の菩提寺となる芳徳寺を開山している。翌寛永16年(1639年)、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなった。

寛永18年(1641年)、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡された。これにより両寺は従前通りの出世入院が認められ、また幕府から剥奪された大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣奪還も行われている。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのである。』 東海寺の塔頭すべてに紫衣が許されたというのは、多分この頃でしょう。 『正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。享年74。死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したという。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡も残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。』

木瓜爺「清光院」の境内に戻ります。境内にはいろいろな石碑がありますが、今日のカメラでは、うまく写ってくれません。お地蔵様は大丈夫だな? お稲荷さんの社もありました。

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墓地は、裏の方にあるようです。しおり戸を出た所に、入口がありました。

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今日は入らない事にします。これ以上時間を使うと、帰れなくなる?

でも、ここの墓地は、凄いお墓があるようです。「新編武蔵風土記稿」でも、墓のことばかり書いて有りましたものね。「品川観光協会」も、墓のことを書いています。

『奥平家墓域<品川区指定史跡第5号>
・奥平家は徳川家譜代の大名で、初代定昌(のち信昌と改名)は徳川家康の長女亀姫を妻とし、美濃国(現岐阜県)に10万石を領した。
その後、何度かの転封ののち、豊前国(現大分県)中津藩主となっている。
・清光院に墓所を定めたのは4代昌能のときで、以後代々の藩主らが葬られている。
・瓦積の土塀に囲まれた598㎡の墓域は都内の大名墓域としては有数の広さで、慶長19年(1614)に没した二代からの墓石88基がある。奥平家は譜代大名で、中津(大分県)藩主であった。 ・なかには3メートルを超える巨大墓もある。

○永井家墓所:・永井家ほ摂津国(現大阪府)高槻藩主。
m94-42-16 F2348・49基の墓碑があり、2代直時以降、昭和にいたるまでの当主・夫人等が葬られている。
○能楽の金春、大蔵両家の歴代の墓。
○利休居士石浮図
・茶道江戸千家の祖・川上不白の建てた千利休の追遠塔。
・明治初年に廃寺になった東海寺塔頭、琳光院から移設。』墓参りの方のための休憩舎も作られていました。

清光院の裏に「大龍寺」があるようですが、入口はかなり迂回して行くようです。迂回路を考えると、次は「天龍寺」かな?

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