2016/01/31:南品川散歩;木瓜爺撮歩94-43 瑞雲山 天龍寺 (No.2581)

「東海寺」及びその塔頭は臨済宗大徳寺派でした。隣の「瑞雲山 天龍寺」は、曹洞宗のお寺になります。『寺伝によれば下谷天龍寺(現足立区東伊興功徳山天龍寺)は昔此寺の出張寺であった。それは品川から御城までは、かなり遠いので、下谷に一寺を建立して住僧はそこに居て時々登城したのである。それで彼の寺も功徳山天龍寺と名付けた。下谷天龍寺の伝に、天正9年一庭氷見が品川の天龍寺を創建したが、東照宮の時二世嶺育に帰し召されて登城した。老僧遠路の往来にたえられず、御城の近くに寺地を賜ることm94-43-01 F2354を願い上げ、慶長15年湯島を替地として賜り、元地は無住に等しいものになったが、国府台総寧寺哲尊が在府の時宿寺として後、其弟子宝鈯を住まわせ、後で今の地に移ったと云う』と、「品川区の文化財」に記述されています。「新編武蔵風土記m94-43-00 F2355稿」の記述を踏襲しているようですが、後ほど補充しましょう。

「清光院」を出て、南に100m程進み、左折して100m程進むと、こんな煉瓦積みの塀が続きます。これが、「京浜工業発祥之地」と云われる「工場跡の煉瓦塀」なのだそうです。塀に沿って次の角を左折したところに門がありました。新しい門のようです。「額」はかかっていませんが、「天龍寺」の表札がかかっていました。m94-43-02 F2356天龍寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山門をくぐります。広場になっていて、正面が本堂のようです。本堂の右に木に隠れていますが、庫裡があるようです。本堂の左側は、墓地の入口になっているように見えました。

m94-43-03 F2357

品川観光協会の頁で見たと思うのですが、墓地の入口にある地蔵尊がちょっと曰く付きの地蔵でした。それを見に行きます。

m94-43-04 F9423

 

 

 

 

 

 

 

 

これらしいですね。三体あると書かれていますから、後列の地蔵も含まれているようです。その曰くをコピーしましょう。

『○碑文谷踏切責任地蔵尊
ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王堂と言われていた。そこにある天龍寺の本堂の左側、墓地への入り口の脇に大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな3体の地蔵がある。「碑文谷踏切責任地蔵尊」と言われている。

大正七年(1918年)5月18日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王堂に入った。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていた。渡り始めた時右から下関行きの貨物列車が迫ってきた。人力車の車夫は慌てて逃げたが、客の行員は逃げ遅れ跳ね飛ばされ即死した。その時当直の踏切り番は二人いた。しかし、一人が仮眠中で一人が居眠りをしていたため遮断棹を下ろさなかったのが原因だった。当時踏切り番は激務にもかかわらず朝7時交代の一昼夜勤務であったため、みんなは過労から居眠りをしてしまったのだろうと話し合っていた。

しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故の直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶った。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切り番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘った。

天竜寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切り番の供養のために造立されたものである。(しながわ昔話)』 こちらの写真と見比べると、地蔵の位置が少しかわったようですね。

さて、本堂に戻りましょう。

m94-43-05 F9426

なーにもありません。写真にならないなあ・・・欄間の獅子でも写しておくか・・・

m94-43-06 F9427

m94-43-07 F9428「葵の紋」が見えますね。木鼻がちょっと変わっていました。 ご本尊は「お釈迦様」だと思います。「合掌一礼」。

では、「新編武蔵風土記稿」です。

『(南品川宿)天龍寺 除地六段二畝四歩大龍寺の南隣なり 瑞雲山と號す 禅宗曹洞派駿河國有度郡大谷村大正寺末 開基は越前宰相忠昌御母堂清涼院殿なり 寛永十七年七月二十七日逝去 開山は一庭氷見 慶長十八年十二月三日寂す 寺僧云 下谷天龍寺(功徳山天龍寺)は昔此寺の出張所なり 其故は品川より御城迄程遠をもて 下谷に於て一寺を建 住僧其所に居 召に従て登營せり 故に彼寺も天龍寺と名付されば あながち本寺ならねども 後は下谷天龍寺住職替る毎に 當寺より其人を撰で 公に願ひ奉り 詳を得て本寺に達すと云 下谷天龍寺の傳に 天正九年氷見 品川の天龍寺を創建せしが 東照宮御時二世嶺育に寄依し給ひ しばしば召れて拝謁す 老僧遠路の往来に堪ず 御城近邊にて寺地を賜ん事を願上 慶長十五年湯島にて替賜り 元地は無住にひとしかりしを 國府臺総寧寺哲尊在府の時宿寺とし 後遂に其弟子實鈯して住せしむ 後に轉じて今の地に移れりと云 斯兩寺の傳區々なれば今姑く並べ記せり 本尊釈迦坐像長七寸客殿八間に六間半   寺寶 古屏風一隻。古法眼元信の畫と云傳ふ 唐玄宗楊貴妃の圖なり 越前家より寄附する所と云傳ふ 畫像は殊勝なれど著色は後人の潤色を経しものと見ゆ 此畫につき奇怪の説あり 今とらず 屏風一隻 鷹の畫なり 探幽守信筆 屏風一隻 土佐家の畫尤古色なり 筆者詳ならず
鐘楼 本堂に向て右にあり 鐘に享保年間の銘あり  表門 東に向柱間八尺』

m94-43-08 F9429

振り返ってみると、ここにも銀杏がありますね。いずれは、巨木になりそうです。次は「新編武蔵風土記稿」では「瑞雲山大龍寺」・・・山名が同じですねえ? ちょっと変わった(?)宗派なのですが・・・何だと思いますか?

広告
カテゴリー: 寺社, 散歩, 伝説 パーマリンク

2016/01/31:南品川散歩;木瓜爺撮歩94-43 瑞雲山 天龍寺 (No.2581) への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 2016/01/20: 木瓜爺の品川散策ご紹介 | Choi-boke 爺ちゃん

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中