2016/02/03: 南品川散歩;木瓜爺撮歩94-46 経王山 本光寺と 大乗山 淸光寺 (No.2584)

「海蔵寺」の無縁塚群を見ましたが、品川という海辺の場所には、水難者の無縁塚などもありますので、いずれどこかのお寺で紹介することになるでしょう。「品川寺」あたりに有ったような記憶ですが、あてにはなりません。

「海蔵寺」から元に道に戻って、左に入ったのか、第一京浜を北に進んだのか、もう記憶が薄れていますが、多分後者でしょう。このあたりから、東側にかけて、「日蓮宗・法華宗」関係のお寺が幾つも並んでいます。その最初が「本光寺」なのですが、・・

m94-46-01 F9475本光寺

「第一京浜」に面した入口です。左に入って直ぐ右に山門がみえます。ところが、左折した正面にもう一つの紋が見えるのです。これが「淸光寺」です。

m94-46-02 F9477淸光寺

「淸光寺」は、元は「本光寺」の塔頭であった「清光院」です。現在、本光寺が単立寺院になっているので、「清光院」を「淸光寺」に変えて別の道を歩んでいるのかも知れません。「猫の足あと」さんにはこう書かれていました。『清光寺は、本光寺の塔頭寺院として創建されました。・・・もと本光寺境内鬼子母神堂であったが、本多日生の雑乱勧請排他思想により鬼子母神を厨子に封印し本光寺に還帰、そのお堂が清光寺の本堂となったと伝えられるが詳細は不明。このほか本光寺住職の隠居所であったという説もある。開創年代不明。開山不祥。三派合同以前は顕本法華宗。 本堂は大正12年震災で倒壊し、大正15年再建。本光寺の塔中寺院三ケ寺の一つ。(日蓮宗東京都南部宗務所WEBページより)』 これによると、現在は「日蓮宗」に属しているようです。江戸期の「新編武蔵風土記稿」によりますと、少し違っています。『鬼子母神堂 本光寺客殿の側にあり』で、『塔頭 清光院 鬼子母神堂の西南に在』ですから、別個のものです。いずれにせよ、本堂は関東大震災で倒壊して、新しく作られたものですね。

m94-46-03 F9478淸光寺

m94-46-04 F9479『大乗山 清光寺 住所:品川区南品川4-2-8 本尊:説法像 宗派:日蓮宗』 こちらは境内にはいれませんので、塀の外から写させて頂きました。この品川には、まだ多くのポンプ井戸が残っています。ここにも一つありました。

さて、「本光寺」の方に足を運びます。こちらは、「顕本法華宗」のようです。「顕本法華宗」というのは、祖師は「日蓮」ですが、派祖が「日什」となっています。

m94-46-05 F9481本光寺

「新編武蔵風土記稿」の「本光寺」は、4頁ほど使って「制札」や「禁制」の文書なども記録しています。本筋の所だけ抜き書きしておきましょう。『本光寺 除地三段七畝十八歩 妙蓮寺の西隣なり 経王山と号す 法華宗京都妙福寺末 什門流派の触頭江戸三ヶ寺の一なり 当寺則日什承徳二年起立す 什は明徳三年二月二十八日寂す 後二位僧都を贈らる 客殿は八間に七間 南に向ふ 本尊宗風の諸尊を安す 按するに妙国寺文書に寛正六年十一月十九日 品川の領主上総前司沙弥道扶随應庵跡敷地を当寺に寄附せしことあり 又本光寺住持日曉文明八年丙申六月二十日鈴木入道に贈る書に馬場地替代に本光寺地進置事東者其方之・・(中略)・・昔は大寺なりし事しらる』

此の後に寺に伝わる古文書八通が書かれていて、それが終わると『鬼子母神堂』『鐘楼』が入って、『品川問答旧蹟 客殿の西北の方にあり ・・・・』と続いて行きます。旧蹟そのものは、「松の木」が残っていたようです。問答については後ほど・・

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教育委員会の掲示にある「木造日蓮上人坐像」は風土記稿には出て来ません。江戸初期の作なので、価値がまだでていなかったのでしょうね。

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m94-46-08 F9485まずこのお堂ですね。これは何だろう? 「本光寺宝塔」だそうです。昭和に作られたものだそうです。三重塔と同時期の昭和60年完成とのこと。
高さ6.0m、径1.71m。

本尊:日什上人。つまり開山堂みたいな意味かな? 派祖であり開山(此の場合は「改」かも)者の「日什」を祀っているのです。塔身は漆喰ではなく、板張。軒はニ重繁垂木、四手先を用いる。屋根本瓦葺。と、説明されていました。

風土記稿とダブりますが、この寺の縁起を見ると、『本光寺の縁起:本光寺の創建年代等は不詳ながら真言宗寺院として創建、顕本法華宗の開祖日什上人のが永徳2年(1382)法華宗に改めたといいます。江戸時代には、南品川天妙国寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末の觸頭三寺だったといいます。』 と、書かれていました。

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「本堂」の前に来ました。風土記稿では「客殿」が記述されていますが、これは「本m94-46-12 F9492堂」で良いのでしょうね? 横には庫裡でしょうか? 寺務所でしょうか? 人間用の建物がありました。

先ほどのちょっと書いた「品川問答の碑」というのが、どこかにあるらしいのですが、見つけられませんでした。「品川問答の碑:寛永19年(1642)、3代将軍徳川家光がこの寺を訪れ、芝・増上寺(港区)の 住職・意伝と、この寺の住職・日啓が、東海寺の沢庵和尚の立会いのもとに、 念仏無間の問答をしたと伝えられる。」 「念仏無間」というのは、日蓮が、浄土宗の法然上人の説に、挑戦状をたたきつけた? というか、誹謗した説なのです。「南無阿弥陀仏」と唱えること自体が、無間地獄への入口であるとイチャモンを付けたようです。持って回った言い方ですが、要は「他力本願」では「法華経」の教えを誹謗していることになると云っているようですが、木瓜爺にはよく分かりません。問答は、家光の前で、浄土宗増上寺のm94-46-11-F9491_thumb.jpg意伝とこの寺の住職・日啓が行い、東海寺の沢庵が立ち会ったというのですから、舞台と役者は面白いですね。沢庵さんがなんと裁いたのか知りたいところです。木瓜爺なら「いろいろあらあな」と、恩師の口まねするところだなあ・・  三重の塔は墓地に立っていました。卒塔婆がずらりと並んでいるので、遠慮して、遠くから写しています。

品川には、「家光」と「沢庵」の問答についての「問答河岸跡」という石碑がある筈ですが、まだ見つけて居ません。品川宿跡付近だというので、見落としたのでしょう。中身は、家光が「海近くして東(遠)海寺とは是如何」 と聞いて、沢庵が「大軍をm94-46-13 F9493法輪閣率いて将(小)軍と謂うが如し」と答えたというだけのこと。言葉あそびです。 第一京浜に戻ると、道の向側の「妙蓮寺」と其の墓地が見えます。「法輪閣」という建物があるのですが、「妙蓮寺」の施設でしょうか。「立正佼成会」もよく「法輪閣」という施設を作っていますが? えーと、横断歩道はどこかいな?

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