2016/02/07: 南品川散歩;木瓜爺撮歩94-50 熊野山 父母報恩院 常行三昧寺 (No.2588)

長ったらしい名前のお寺です。「熊野山父母報恩院常行三昧寺」略して「熊野山報恩院常行寺」もっと略して「熊野山常行寺」。ここは、「天台宗東京教会」の紹介が、詳しくて、木瓜爺がうだうだ書くより分かりやすいようです。後で、挿入します。

「御嶽稲荷神社」の脇を南下する路、これは、古東海道に平行な側路のようです。これを、南に進んで、突き当たりになる場所の右手(西側)に「常行寺」入口がありました。

m94-50-01 F9533常行寺

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門前には「城南小学校創立跡」の碑があります。明治期における「寺子屋→小学校」のパターンがここにもありました。なんといっても、昔の寺や僧は、葬式ばかりでなく、人間が生きる為の手助けもしていたのですが、その一つが教育でした。此所の場合は、住民が寺のスペースを利用して小学校を立ち上げたようです。山門の「額」は「熊野山」。

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山門をくぐると、広い境内、突き当たりが本堂ですが、左の方にいくつかお堂があるようです。写真では見えないのですが、ちょっと引っ込んだところに「地蔵堂」がありました。

m94-50-07 F9539地蔵堂

其の横のお堂は、よく分かりませんが、「護摩堂」と呼ばれるお堂のようです。

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内部には、厨子、位牌や僧像らしいものが置かれています。

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本堂に行く前に、冒頭に書いた「天台宗東京教会」の記述を入れましょう。

『熊野山父母報恩院 常行寺(正式名称:常行三昧寺) 所在地:〒140-0004 東京都品川区南品川2丁目9番18号  開創:嘉祥元年 (西暦848年) 本尊:阿弥陀如来』

『常行寺は京浜急行「新馬場」と「青物横丁」の間、旧東海道に面している。京浜急行「北品川」から「青物横丁」にかけてのおよそ2㎞ほどの間には28もの寺院があり、その多くは江戸幕府の命により集められたものである。江戸の東海道入口という要所にあたり、そこを守る軍事目的、あるいは府内の都市計画による府外への移転といったことによるもので、常行寺ももとは東大井4丁目、今の立会小学校、区立大井公園付近にあったとされる。
常行寺の正式名称は「常行三昧寺」。慈覚大師円仁様が父母の恩に報いるために常行三昧を修する目的で建立した寺である。大師が横川中堂を建立された後、母の病重きを知り、平坦な東海道を急ぎ故郷の下野へ向かう途中、品川大井村で母の死去を知らせる使者に出会い、その地にて堂を造り常行三昧を修して母の冥福を祈られた。熊野山父母報恩院常行三昧寺と名付け、村人達にも彼等の両親の菩提を弔うよう説いた。これが常行寺の開基で、大師が使者に会った嘉祥元年(848)10月16日を開山の日としている。
長保年中 恵心僧都源心様が住職をし、武蔵国、相模国に五百ケ寺余りの末寺があったと伝えられている。その後、次第におとろえ鎌倉時代になると若干の寺領のみになった。戦乱の文安元年(1444)から大永六年(1526)までは住職もなく、わずかに寺号が存するのみになってしまったといわれる。当時この付近は足利持氏と品川氏の合戦の場になっていたと伝えられている。 大永七年實海僧正が旧蹟の絶えていることを嘆いて再興された。これによって實海僧正をもって中興の開山としている。m94-50-10 F9545

慶長の頃までは相当の寺格があったが、東叡山草創の後はその末寺となった。
承応2年(1653)幕府の命により静尊が、大井より品川のこの地へ移した。
宝永年中、および享保年中数回に渡り罹災、諸書物等焼失している。
現在の本堂は享保年間(1716-1736)に再建されたものと伝えられている。
常行寺の隣には城南小学校があるが、これは北品川の品川小学校に対抗し、南品川地域の住民が立ち上がり、常行寺の本堂と大師堂を使用して第二中学区第八番城南小学校として明治7年(1874)に開校したものである。そのため常行寺は城南小学校の前身となっている。』

このお寺は、最初は東大井にあったということ、東海道入口には、幕府が寺院を集めて配置していたとか、詳しく説明してあります。

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本堂の横には庫裡が続いています。m94-50-09 F9550

これは護摩堂の横あたりにあった石仏だったかな?

「新編武蔵風土記稿」にもかなり長い記述がありますが、先ほどの説明と重複することを削除して・・・

『常行寺 除地一町六段八畝五歩 年貢地二段五畝三歩 四町目の西側にあり 天台宗熊野山報恩院と號す 昔は延暦寺の末寺なりしか 今は東叡山の末となる (中略) されば関東の古跡にて武・相兩國の檀林末寺五百箇寺に餘れり 目黒不動の像も元は當寺護摩堂の本尊なり 別當龍泉寺なりしと云 然に今龍泉寺にては此傳なし 又云鎌倉将軍の頃は若干の寺領も有けれど 後年次第に衰微し、文安元年より大永六年に至る迄八十一年 住僧も絶て纔に寺號を存するのみなり 同七年寶海僧正舊蹟の将に絶なんとするを嘆き 力を盡して舊観に復せり 是を二十九世中興開山とす

是より連綿し 慶長中營中天台論議の時三十六世蓮海其列に入 此頃猶當寺檀林にて然るべき寺格なりしが 東叡山御草創の後檀林を止たる 又往古は寺地隣村大井村にあり 承應二年住持静尊が時此地に移し 輪奐頗る美を盡せしと云 大井の遺址は後に松平土佐守忠豊が下第となる 今に至て邸中に常行寺石影向の松など残れりと云 寶永の頃屡回禄に罹り 記録什物悉烏有となり 享保年中に至り住僧旦越等と謀り堂舎を再營して又舊に復す 今は此邊及川崎邊宗門諸刹の本山なり 本堂七間四方東向、本尊弥陀を安ず木佛長三尺』 このあと、宝物の説明が続きます。そこを省略して・・・

辨財天像一軀 恵心僧都の作と云 長五寸許、厨子に入て本堂に安置す 潮中薬師佛一軀 一名を沖中薬師とも云 もと寺中真光院の本尊なりしか廃後本堂の内に安す 廃蹟今門を入て左にあり 今戸越村に薬師水と云所あり 此像出現の地也と云
鐘楼 門を入て右にあり、九尺四方鐘は寶暦年中鋳 地蔵堂 鐘楼の傍にあり一間に九尺 熊野社 西南の田間にあり 境内の鎮守なりことに古社なりと云 妙國寺文書に憲泰と云人 永享十一年熊野堂の南一段の地を妙國寺に寄附すと云 熊野堂は即當社なるべし
門前町屋 古門前は表門に傍へり、間口三十一間歩数三百六十五坪餘 承應二年當所に移りし後建る所 延享三年町奉行の支配となる 新門前は裏門の傍にあり 間口西側四十九間北側四十八間 歩数七百四十八坪餘 明和五年五月寺社奉行久世出雲守廣明に願ひ 十年の期限を建て夫より町奉行の支配を受』

「鐘楼」「地蔵堂」「熊野社」などは、無くなったようです。

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では、失礼して次に・・時宗の寺「長徳寺」という名前が、ちょっと出てきたことがありましたね。地図を見ていて、城南小学校の横に、其の名前を見つけました。古東海道の路から入れそうなので、そこに向かいます。三つ目の時宗ですね。おそらく寂れた寺でしょうけど・・・

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